三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

萩原朔美『死んだら何を書いてもいいわ』

2009年02月09日 | 

私は小説好きだが、詩のよさはさっぱりわからない。
が、伝記は詩人のものもおもしろい。
ゴシップ好きなものですから。

萩原葉子『父・萩原朔太郎』を読むと、萩原朔太郎という詩人は自分一人では何一つできず、マザコンで、アル中で、生活無能力者で、社会不適応者で、はた迷惑な天才である。
妻は夜遊びし、男を作り、離婚するのだが、仕方ない気もする。
もっともこの母親もちょっとしたもんで、娘二人が高熱の時でもダンスホールに出かけて行ってしまう。
母親に捨てられた娘の萩原葉子は祖母の家でいじめられて育つ。
そうした自分の半生を書いた萩原葉子『蕁麻の家』はさすがに読む気がしない。

で、萩原葉子の一人息子である萩原朔美が母親のことを書いた『死んだら何を書いてもいいわ』を読む。
母親から電話がかかり、脚が思うように動かなくなったという。
「一緒に暮らせないかしら」と遠慮がちに言われ、同居することとなる。
そして、186日間暮らして萩原葉子はなくなる。
母親の思い出を書いたのが『死んだら何を書いてもいいわ』である。

萩原葉子は夫とケンカばかりして離婚するのだが、萩原朔美によると「父親が文学者の娘は、結婚生活がうまくいっていない場合が多い」そうだ。
太田治子、幸田文、広津桃子、津島佑子、室生朝子、森茉莉、そして萩原葉子と名前を挙げているが、個人情報をばらしていいのだろうか。
「父親の偉業を周辺から聞かされれば、娘はどんどんイメージを広げて父親を神格化してしまう」

なるほどと思ったのが、老化のこと。
「老化というのは、脚から始まるものではないのだ。老化は意欲の低下なのだ。仕事も趣味も学ぶことも一生終わることはない。終わるのは意欲だけなのである」
「きっと、老化というのは弱った体力が意欲を道づれにしようとする日々のことなのだ」

たしかにその通りだなと思う。
衰えた母親の姿を見、そして1946年生まれの萩原朔美自身が意欲の衰えを感じたのだろう。
実感がこもっている。

そして介護。
親不孝と自ら言う萩原朔美は
「親の介護という行為は、何をどうやっても、うまくいったというカタルシスのないものだと思う。残念だけど、ああすればよかった、こうすればよかった、と思い返すことだらけの行為なのだ」
「子供は親が居なくなって、初めて子供を自覚するのである」

私の両親は元気なので介護は未体験だが、これまた多分その通りだろうなと予想している。
知り合いのお父さん(90歳)が認知症なんだそうで、知り合いは「以前は早く死ねと思ったこともあったが、今は一日でも長生きしてもらいたい」と言う。
その気持ちはすごくわかる。
私自身、いかに親に頼っているかを思う。
親が死ぬというのは何か頼りないというか、心細いというか、ひとりぼっちになるというか、そういう感じがする。
萩原朔美にしても、80すぎた親の家の合い鍵を持たず、4歳の娘が祖母に会ったのは一回きりという、母親とはそういう疎遠な関係だったのだが、巨大な存在である親が小さくなり、そうして死んでいくということは、年だからとかと割り切れることではない。
本を書くということで自分の気持ちを整理したくなったのだと思う。

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1 コメント

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Unknown (はるな)
2015-03-01 10:43:52
貧弱な読書感想文だな。萩原家を語る資格などお前にはない
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