三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『アーミッシュの赦し』5

2012年11月19日 | 厳罰化

乱射事件の加害者をアーミッシュが赦したことに、多くの人が感動しました。
それは、こうありたい、しかしできない、と思っていることをアーミッシュは簡単にやってにいると感じたからでしょう。

しかし『アーミッシュの赦し』は、アーミッシュを過度に美化するのも間違いだし、アーミッシュも過ちを犯しやすい人間であることには変わりないと指摘しています。
アーミッシュとは文化や伝統が異なっている私たちが、アーミッシュをそのまま真似できるものではありません。

とはいっても、見習う点は多いと思います。

木嶋佳苗被告の裁判員裁判で死刑判決が下されました。
裁判員の一人(27歳・男性)は判決後の会見で「考えさせられる部分がたくさんあったが、達成感がある」と話したそうです。
「達成感」をどういう意味で使ったのでしょうか。

『年報・死刑廃止2012 少年事件と死刑』に載っている「魔女裁判を超えて 死刑法廷とジェンダー」という座談会には、こういう感想が述べられています。
北原みのり「裁判員の若い二七歳の男性が、死刑判決という重い判決をして、あなたはどう感じたのかということを質問された時に、裁判長に導かれるようにみんなで一体感を持って、結束してやりましたと答えました。スポーツ選手みたいな記者会見だったんですよね。とても充足感のある、達成感があるみたいなことを言う。私は本当に違和感があった。それはみんなで悪い女を団結してやっつけました、被害者の仇取りましたって、そういうふうに聞こえたんです」
裁判は被害者の復讐の場であり、死刑は国が被害者の代わりに復讐することだと言う人がいます。
この男性は北原みのり氏の言うように仇討ちのつもりで裁判員になったのでしょうか。

角田由紀子「さっき裁判員の人が達成感とかミッションとか感じるというのは困ったもんだというのはいけないかもしれないけど、達成感ってこの場合は人を殺すということじゃないですか、死刑にするということだから。その結論に加わって達成感を感じるって恐ろしいことだと思うの。(略)裁判員にとって死刑というのは抽象的なものなのよ。具体的な生きた人間が殺されるという話じゃない。だから一票入れた、達成感という言葉で表現できると思うの」
木嶋佳苗被告は否認しているし、状況証拠しかありません。
ですから、死刑の判決を出すことにためらいを感じた裁判員がいたでしょう。
そうした難題を克服して死刑判決に持っていったので達成感を感じたのかもしれません。
この男性が死刑の執行ボタンを押すことになっても達成感を感じるでしょうか。

忠臣蔵のような復讐劇に喝采し、復讐を美化する文化よりも、「許しなさい」とまでは言いませんが、恨みや怒りを手放すことに価値を見出し、育てていく文化を作っていくべきだと思います。

青木理「刑事司法の厳罰化で応えるというのは、一見すると分かりやすいけれど、実は一番安易で無責任な方法でしょう。メディアにしても、社会にしても、「厳罰に処せ」「死刑にしろ」などと一時的に盛り上がっても、すぐに次の血祭り対象を見つけ、事件や被害者のことなんて忘れていってしまうわけですから。そうじゃなくて、残念ながら一定の割合で発生してしまう犯罪の被害者や遺族を社会的にフォローし、一方で加害者に贖罪の念を抱かせ、できる限り更生の道を探っていくことが本来の道であり、僕たちはそういう社会システムをこそ目指していくべきです。厳罰化し、死刑で加害者を葬ることこそが正義だ、というような昨今の風潮は、極めて表層的で、こちらの方がよほど社会の病を表象しているように思います」
(『年報・死刑廃止2012』)

世の中をよりよいものにしていくのは、怒りや恨みではありません。
『アーミッシュの赦し』に、「人間の〈真の〉欲求は、癒しと希望によって悲劇を乗り越えることなのだ」とあります。

「アーミッシュにとって、意味と希望ある生を送るには、赦す、それも速やかに赦すことが望ましいやり方である。赦しには、復讐を進んで断念することを含むが、出来事を帳消しにしたり、罪を赦免することは含まない。それでも、赦さずに恨みを抱えているよりも希望をもって、暴力の少ない未来へ踏み出す最初の一歩になるのである」

オスロ大学のニルス・クリスティ教授も講演で「2011年のオスロ連続テロ事件に触れ、「77人を殺した犯人に適切な応報を考えることは不可能であり、犯人は移民の排斥や死刑の復活などを求め社会を変えようとしたが、それに応えるのは厳罰ではなく「赦し」ではないか」と話したと、小川原優之「日本弁護士連合会の死刑廃止についての全社会的議論を呼びかける活動」(『年報・死刑廃止2012』)にあります。

あるアーミッシュはこう語っています。
「恨みを一日抱えているのは、悪いことだ。二日抱えているのは、もっと悪いことだ。一年も抱えていたら、あいつ[ロバーツ](加害者)が僕の人生をコントロールしていることになる。それくらいなら、今すぐ恨みを捨てたほうがいいだろう?」

怒りや恨みが自分自身を蝕むことは、私たちも日常の中で経験することです。
「赦し」だと宗教的ですが、「怒りや恨みに振りまわされない」ということなら我々にとっても身近な課題だと思います。

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19 コメント

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同感です、まったく。 (となりのみよちゃん)
2012-11-19 21:28:45
恨み怒りを手放すことに価値を見出す、それが出来るように、みんなが心を鍛えていくことが出来たら、簡単ではないと思いますが、それが出来たら、とても素晴らしいことだと思います。恨み・怒りは、まったく、不毛ですから。
でも、いざ、自分の身内が、乱射事件に巻き込まれでもしたら?考えるだけでも、恐ろしいことです。無差別殺人、こういうことが現実に起きてしまう社会のこと、ひっくるめて、考えていきたいです。こういう無差別殺人の根っこには、社会への恨み・つらみ・ねたみ・怒り・いろいろ同居しているようですし。

日常生活において、座作進退方法を叩き込んで、常に学習していけば、私のような凡人でも、恨み・怒りに振り回されない、そんな人生が歩める、そう希望が湧いてくるような日記でした。
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よそ事なら冷静になれる ()
2012-11-20 16:08:42
イスラエルのガザ攻撃は恨みと怒りの悪循環の典型だと思います。
国連などはイスラエルとハマスとを仲裁しようとしてますが、犯罪についても同じでしょ。
当事者にしたって、怒りと恨みを持ち続けるのはしんどいことです。
怒りや恨みを別なものに消化・昇華していくことができれば。
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ずばり (となりのみよちゃん)
2012-11-20 21:02:38
怒りや恨み、どんなものに消化・昇華していく手段、考えますか?円さんなら。
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私ですロバーツです (てるてるぼうず)
2012-11-20 22:14:50
私が被害者の人生をコントロールしているなんて、加害者の私が言うのもおかしいですが、心外です。
私は赦されました、しかし、その赦しには私の存在なんて関係ないのです。
アーミッシュにとって私を赦すことは、神との契約を履行することなのです。
そう、最後の審判のために。
自分自身のためなのです、そこに私の存在はありませんでした。
勿論、私の罪が赦されて消えるものではないです、いや、刑罰を受け、そして償わなければなりません。
そんなことは、同じ神を信仰する者にとって充分解っていることなのです。
不思議なのは、同じ神を信仰しているマスコミが取り上げたことです。
ただ神との契約の履行を。
ですから、私は赦されましたが、そのことについては何も感想はありません。
私が最後の審判を受けるとき、私の神が神のままか、或いは悪魔となるのか、そのことを考えています。
いや、しかし、しかし、私を赦してもなお苦しんでいるアーミッシュを、最後の審判を待たずに今すぐに救ってくださるよう神に祈ります。
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認知の歪み ()
2012-11-22 15:10:28
>となりのみよちゃんさん
認知行動療法はどうでしょうか。
http://www.jfecr.or.jp/kiyou/h23_40/2-05.pdf
目を通したわけではないのですけど。

>てるてるぼうずさん
キリスト教福音派は好きにはなれませんが、アーミッシュはいいなと思います。
エホバの証人とどう違うのかと言われたら返答に窮しますが、アーミッシュはカルトという感じはしません。
根拠があるわけではなくて、なんとなく、です。
私は執念深い性格で、一度こんちくしょうと思うと、いつまでも忘れることができません。
私があることでAという人に腹を立て、そのことを折りにふれて思い出しては怒りの感情が湧いてくるとして、Aは私の怒りなんて知りませんから、何ら痛痒を感じません。
怒りを抱えてしんどい思いをするのは私だけです。
Aの知らぬこととはいえ、私はAに対する感情に支配されているわけです。
アーミッシュの赦しが、最後の審判で救われるための手段としての「赦し」だとしてもかまわないのではないでしょうか。
そのことで怒りを手放すことができればいいと思います。
戒(シーラ)は「良い習慣」という意味だと聞いたことがあります。
歯磨きをすることだって、昔は毎日三度の歯磨きなんてしなかったでしょう。
でも、それが習慣になれば面倒だと思わなくなります。
人間ですから怒りを覚えることはありますが、いつまでも恨むことをせず、復讐しようと思わないように習慣づける。
不瞋恚戒とはそういうことかもしれないと今、考えました。
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介護施設で (となりのみよちゃん)
2012-11-22 17:47:29
いつも怒っている、おじいちゃまがいるんです。己の人生に恨みもあるようで。先日、ボランティアで、一緒に童謡歌ってきました。♪焚き火だ、焚き火だ、落ち葉焚き、あーたろうか、あたろうよ。そしたら、笑顔になって、まるで、日ごろの怒り・恨みを消し去ったかのよう・・・
こんなんで、いい感じのおじいちゃまになってくれるんだったら、いつも、一緒に歌ってあげようと思ったら、
おじいちゃまのお名前が、阿太郎と言うことでした。
それ知って動揺しました。呼び捨てしてしまった!!どうしよう。
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気になるタチで (となりのみよちゃん)
2012-11-23 05:32:55
例えば、毎日、コメントし合っていて、その返信がないと、円さんにしろ、てるてるぼうずさ、にしろ、なんとなく、気になるんですよね。風邪ひいておいでなのかなぁとか、事故に遭ってしまったのかなぁって。お二人の場合は、何か考えがあってのことと想像出来ますが。

ところで、こういうパターンで、メールに、はまっていって、この日記にも書いてあった木嶋さんみたいな展開になっていくのでしょうか?メールのやり取りだけで、集団自殺していくケースなんかも、メールの功罪について、考えたりところです。

昨日は11、22の日だったとか。遅ればせながら、いい夫婦してきま~す。旅には、パソコン持ち歩かない主義ですが、スマホでブログ応援してま~す。
返信する
元気ですよ (てるてるぼうず)
2012-11-23 13:12:08
>となりのみよちゃんさん
気遣って頂いて恐れ入ります。
まだサラリーマンなので(言い訳だなー)、なかなか自分の時間がないです。残業があるわけでもないのですけど。

>円さん
思いますに、自分の子に対して親は100%味方であり、何があっても庇うものと考えています。
仏様の慈悲はその関係を越えて誰に対してもです。
仏教が仏になる教えであれば、仏様の信心を得れば加害者に対しても庇う心ができると思います。
そこが神と契約する宗教と違うところではないでしょうか。
神の意志で判断するのではなく、自らの慈悲(誰に対してもの)の心で自分の身内と同じように判断することができるようになるのではないでしょうか。

私は最近、市場などへ行くと人を観るんです、私の家族と同じように愛(煩悩の愛ではなく)することができるのかなーと。
一生無理かもわかりません、というより、無理でしょうね。

しかし、なにか、聞き難き仏法を聞くことができ、自分が少しづつ変わっています。
他力の真宗ですけど、橋もなく舟もない川を何時か気がつけば向こう岸に渡っているような気がします。
此の身今生で度せずんば・・・・

自分も他人も何等かわるところがない、他人を傷つければ自分の心が傷つく。
加害者も傷ついた一人の人間であれば、裁判でどう考えるのかが明らかになってくるでしょう。

アーミッシュについては悪い感情はもっていません。
でも私は、やっぱり阿弥陀さんです。

来週は本山の報恩講で京都にいってきます。
返信する
もーれつア太郎 ()
2012-11-24 19:42:29
>となりのみよちゃんさん
西鉄バスジャック事件のネオむぎ茶、秋葉原通り魔事件の加藤被告、ネットがなければ起きなかったかもしれない事件です。
ここまでいかなくても、ネットがきっかけで起きた小さな事件はたくさんあるんdしょうね。

>てるてるぼうずさん
中学の国語の教科書に「母親の愛は無私の愛」というような題の随筆がありました。
どうですかねえ。
阿弥陀仏のことを親様と言いますけど、我が身をふり返れば、親の愛なんて、そんな大したものではないと思います。
仏の心をいただけば、仏に背いている自分に気づくのではないでしょうか。
本田哲郎神父は「愛」ではなく「大切」という言葉を使われます。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/f31cffae653a1dbbd7054be7b1ecd4f0
で、キリスト教徒の知人にその話をしたら、たしかにそのとおりだ、しかし学校の先生は「仲良くしましょう」「人のいやがることはしないようにしましょう」と教えるが、みんなが他人を大切にできていたら争いはとっくになくなっているはずだ、と言われました。
反論できませんでした。

私はキリスト教徒になる気はさらさらありません。
全能の神なんて信じたくもありませんから。
でも、アーミッシュへの憧れはあります。
アーミッシュの社会はより快適にと進歩してきた社会に対する鏡というか、もっともっとと求め続けることが幸せなのかと問いかけているように思います。
返信する
難しい (てるてるぼうず)
2012-11-25 22:24:35
親の愛
他の言葉がなかなか出てこないのでこいたのですが、煩悩の愛ではなく、自分の子供が殺人のような犯罪者になっても必ず守るという意味です。
書いているのは、私の希望だけです。
仏様が誰にでもお慈悲をくださるように、せめて自分の子供だけでも、という希望です。
それがないと、仏様の話し以前にアウトという自分の気持ちなんです。
娑婆の世界で満足して一生を終えても、何も問題ではありません。
貴方の宗教は何ですかの答が『無宗教です』っていう感じでしょうか。

で、凶悪犯が死刑になることは当たり前と考えている。
結構、多いですね。
それが、どうして悪いのですかということなんですが

仏様の話は涅槃の話しですから、赦すことも刑罰の軽重も、娑婆の世界の判断なら意味ない。
人は善悪の判断ができませんから。

釜が崎のお話を読んだのですが、ホームレスの人の思っていることが煩悩であっても聞いて共感するのですか。
その人の話をきいた、そして喜んでもらえた。そして自分も良かったと思った。
それが娑婆の世界の娑婆の満足でないと言い切れるのでしょうか。

クリスチャンなら神の意志でなければ判断を誤る。

仏教徒なら仏様の慈悲でなければ判断を誤る。

>仏の心をいただけば、仏に背いている自分に気づくのではないでしょうか。

なのです。

仏陀でなければ判断は難しい。
返信する

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