旧聞ではありますが、今年の1月に麻生太郎副総理が「さっさと死ねるように」という発言をした。
知人によると、「しんぶん赤旗」が麻生太郎氏の発言を一番詳しいが、全国紙各紙は半分しか伝えていないそうだ。
“(高齢者は)さっさと死ねるようにしてもらいたい”
麻生副総理が暴言 社会保障改革国民会議で
麻生太郎副総理・財務相は21日に開かれた政府の社会保障制度改革国民会議で、余命わずかな高齢者の終末期の高額医療費を問題視し、「政府のお金で(高額医療を)やってもらっていると思うと、ますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうなど、いろいろ考えないと解決しない」と暴言を吐きました。
麻生氏は「現実問題、経費をどこで節減するか」と述べ、延命治療には「月に1千何百万だ、1千500万かかるという現実を厚生省(厚労省)が一番よく知っているはず」だと発言。「私は遺書を書いて(延命治療のためにチューブをつけるような)必要はない、さっさと死ぬから、と(家族に)手渡しているが、そういうことができないとなかなか死ねません。死にたいときに、死なせてもらわないと困っちゃうんですね、ああいうのは」などと語りました。(しんぶん赤旗2013年1月22日)
ネットでは、麻生太郎氏は延命治療によってただ生きながらえているだけという状態になりたくないと言っているだけだ、それなのに新聞は言葉尻をとらえている、といった感想が多いように思う。
私もそこまで目くじらを立てないでもと思ったけれども、別の知人(障害者自立支援などをしている)に太田典礼という名前を教えてもらい、考えを変えた。
太田典礼氏は1976年に「日本安楽死協会」(「日本尊厳死協会」の前身)を発足し、理事長となる。
なぜ太田典礼氏が安楽死を主張するのかというと、老人・難病者・障害者たちは「半人間」であり、生きていても社会の邪魔になるだけだからである。
「半人間」には理性や知性などの精神がなく、人間の尊厳のかけらも見ることができないと、太田典礼氏は言っているそうだ。
麻生太郎氏の発言は太田典礼氏と変わらないと思う。
太田典礼氏の本を読もうと思ったが、どうせ腹が立つだけなので、ウィキペディアの「太田典礼」の項からコピーします。
太田は老人について「ドライないい方をすれば、もはや社会的に活動もできず、何の役にも立たなくなって生きているのは、社会的罪悪であり、その報いが、孤独である、と私は思う。」と主張し、安楽死からさらに進めた自殺を提案したり、安楽死を説く中で、障害者について「劣等遺伝による障害児の出生を防止することも怠ってはならない」「障害者も老人もいていいのかどうかは別として、こういう人がいることは事実です。しかし、できるだけ少なくするのが理想ではないでしょうか。」と主張した。
また、『週刊朝日』1972年10月27日号によれば、「植物人間は、人格のある人間だとは思ってません。無用の者は社会から消えるべきなんだ。社会の幸福、文明の進歩のために努力している人と、発展に貢献できる能力を持った人だけが優先性を持っているのであって、重症障害者やコウコツの老人から〈われわれを大事にしろ〉などと言われては、たまったものではない」と放言した。
太田のこうした言動から、安楽死が老人など社会的弱者の切り捨てや、障害者の抹殺につながるとして非難が起こった。太田はこうした批判に対して見当違いと反発したが、1983年8月には団体名を「日本尊厳死協会」に変更した。太田は「尊厳死」の用語を批判していたが、にもかかわらず「尊厳死」を採用したのは、「安楽死」が持つマイナスのイメージを払拭し、語感の良い「尊厳死」に変えることで世間の批判を和らげようとしたのが狙いと言われている。
ちなみに、太田典礼氏は85歳で死んでいる。
どういう死に方をしたのかはわかりません。
知人は、重度障害者や難病者には呼吸器の装着や胃瘻などの経管栄養の使用によって生きている人がたくさんいる、その人たちを「半人間」として切り捨てていいものか、と問いかけている。
麻生太郎氏は金のかかる重度障害者や難病者も「さっさと死ねるようにしてもらいたい」という考えなのだろうか。
麻生太郎氏の発言を支持する人は、自分の子供や孫が難病になって人工呼吸器を装着しなければいけない状態になったとき、「必要はない、さっさと死ぬから」と医者に断るのだろうか。
しかし、迷惑をかけたくないからぽっくり死にたいとか、延命治療をしてほしくない、と言う人は多い。
ということは、寝たきりやボケ老人は生きていても迷惑をかけるだけだから、さっさと死ぬべきだと、私たちは思っているわけである。
太田典礼氏や麻生太郎氏の無知、冷酷、残忍さを責めることはできないと思う。
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はたから見たら、大変不幸そうに見える環境の中にいる方でも、幸せな人生を送っている人、送ることのできる人が存在しているのも、事実です。
寝たきりになったり、認知症になったりしたら、確かに家族やその周りの方は、大変です。
でも、いつ死ぬかは、私たちが、決める問題ではない。家族がそうなっても自分がそうなっても、あるがままを、受け入れる覚悟も大切でしょう・・・
生きていてほしいというのが人情だと思います。
第三者が勝手に決めるべき問題ではないですよね。
無知、冷酷、残忍であっても悲劇です。
目も見えず、迷惑をかけていても解っていないんだからこのおっちゃんは障害者です。
もちろん、目が見えなくても悪いんじゃない、それによって迷惑かけても悪いんじゃない。
このおっちゃんのように気付かないことは、やっぱり愚なんだなあ。
と、「是か非か」と下らぬ問いをした私がぼやいています。
雨宮処凛さんが川口有美子さんに尊厳死法制化について聞いています。
http://www.magazine9.jp/karin/130206/
http://www.magazine9.jp/karin/130213/
http://www.magazine9.jp/karin/130220/
「法制化したい人たちの目的は、経済ですね」
「ALSみたいに長く生きる人や高齢者に対して、『働かざる者食うべからず』という発想で、生活保護の問題と同じ構造で切り捨てようとしている」
尊厳死と脳死臓器移植とは関係がありそうです。
以前、森津淳子というホスピス医の講演を聴いたことがあります、
http://www.moritsu.jp/
新米医者の時、スパゲティ状態の患者さんを見てショックを受けて云々という話に腹が立ちました。
http://www.jinken.ne.jp/aged/moritsu/
ホスピスをあまり美化するのも考えものだと思います。
それは生き切って「死んだ」のであって。
法律や第三者の考えで「死ぬ」あるいは「死んだとする」ことではないですね。
ある僧が死の間際に「死にとうない」と言って亡くなった。
色々と解釈できる言葉ですが、私は私のような凡夫に対する温かいメッセージだと思います。
弱い人間と共にある、という姿ではなく、金や自分の都合で切り捨てるのはどう考えても同意できません。
弱い人間と共にあるというのがホスピスであれば否定しません。
が、この先生は最後脱線していますね。
ですが、森津純子さんは「しあわせに死ぬ方法」という言葉を使います。
誰が「幸せ」か「幸せでないか」を決めるんでしょうね。
「いい生き方をしている人は 、悪い死に方はしません」と言われますが、いらぬお節介だと思います。
今も悲しいです。ただ心臓だけ動かされて生かされているのは本人は辛いと思うし、身内のエゴだと思います。私もただ心臓を動かすだけの延命はして欲しくないです。
ただ尊厳死法案となると、問題がいろいろあります。
児玉真美『死の自己決定権のゆくえ』について書いていますので、よければお読み下さい。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/s/%BB%F9%B6%CC%BF%BF%C8%FE