南部藩では江戸時代、7年に一度の割で飢饉があったそうだが、宮本常一編『日本残酷物語』を読むと、飢饉の際には年寄りや子供より、意外と若い者が死んでいったとある。
自分は元気だからと、弱い者たちに少ない食べ物をまず食べさせたからである。
鴨長明の『方丈記』にも同じことが書かれている。
養和の飢饉の時、仁和寺の隆暁は京都の路上に横たわる死者を供養し、二ヶ月間数えてみると遺体の数が42,300余りにも及んだ。
又、あはれなること侍りき。さり難き女男など持ちたるものは、その思ひまさりて志深きは必ず先だちて死しぬ。その故は、我が身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、いたはしく思ふ方に、たまたま乞ひ得たる物を、まづ讓るによりてなり。されば親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先だちて死にける。
(またたいそう哀れなことがあった。夫婦は相手を思う気持ちの強い者が先に死んだ。そのわけは、たまたま得た食べ物を相手に譲ってしまうからである。だから親子でも、親が先立っていった)
(またたいそう哀れなことがあった。夫婦は相手を思う気持ちの強い者が先に死んだ。そのわけは、たまたま得た食べ物を相手に譲ってしまうからである。だから親子でも、親が先立っていった)
養和年間は1181年から1182年にかけての年号で、安徳天皇の時代である。
鴨長明は1155年生、どうやって養和の大飢饉を生き延びたのだろうか。
鴨長明や親鸞、道元といった死なずにすんだ人たちは「志深き」人ではなかったということか。
過去帳を見ると、江戸三大飢饉の一つ、天保の飢饉の天保8年に亡くなった人は前後の年の2・5倍である。
死亡者が多いのは飢饉のためかどうかはわからないが。
人が死に、死体が目の前にある、自分もいつ死ぬかわからない、それが日常の出来事だったわけでしょう。
宗祖たちはそういう社会を生きていたわけです。
ごく普通の人がどう考えていたのか、どう生きてきたのか、そこがはっきりしないと、宗祖たちの言葉の深いところはわからないんじゃないかという気がします。
> うちの過去帳を見ると、江戸三大飢饉の一つ、天保の飢饉の天保8年に亡くなった人は前後の年の2・5倍である。
拙僧の寺では、天明の飢饉の時が酷かったようです。
あまりに酷かったため、この時の飢饉でなくなった者の鎮魂として、現在の本堂が、当時としては相当立派に建てられたことが分かっています。
現在の宮城県栗原市の一角でしたが、本当に大変だったようです。