砂田麻美『エンディングノート』は、監督の父親である砂田知昭氏が末期胃ガンと宣告されてから葬式までの約半年間を、監督自身が撮ったドキュメンタリーである。
死を宣告されて、という映画は黒澤明『生きる』などなど枚挙にいとまがない。
砂田知昭氏は、自分が死んだらこうしてほしいとエンディングノートを作る。
死のための段取りの一つが葬儀をカトリック教会で行うことである。
そのために神父に相談し、洗礼も受けることにする。
砂田家は仏教なのに、なぜキリスト教に改宗するのか。
娘がカトリックの信者ということもあるが、砂田知昭氏は「リーズナブルだから」と説明するんですね。
キリスト教徒になるといっても、教会に通ったり、聖書を読んだりはしていないのではないかと、映画を見て感じる。
驚いたのが、洗礼を受けたのが亡くなる数日前(たぶん)、病院のベッドで、しかも娘(監督)が洗礼を授けたということ。
水はおそらく教会からもらってきたのだろうけど。
だから、終油の秘蹟や聖体拝領もなし。
まだ動けるうちにどうして洗礼を受けなかったのだろうか。
カトリック教会で葬式をしたいというのは結婚式と同じように、一種のファッション感覚なのかと思った。
結婚式はキリスト教、葬儀は仏教で、という日本人の宗教感覚が変わってきたのかもしれない。
で思ったのが、12月24日、世界平和記念聖堂のミサに行った時のこと。
クリスマスとはキリストのミサという意味とは知らなかった。
話は飛ぶが、日本語ペラペラのアメリカ人と話していて、この人はバプテストの家に生まれ、大学もその関係の学校に行ったけど、今は教会を離れていると言うので、「ミサには行かれているんですか」と尋ねたら(もちろん日本語で)、「ミサとは何か」と聞き返された。
東大卒の人も一緒だったが、「ミサは英語じゃなかったのか」と言ってた。
世界平和記念聖堂のミサに話は戻り、約400席の椅子席はびっしり埋まっていて、立っている人も大勢いたので、全部で600人ぐらいか。
カトリック信者の知人に聞くと、信者はミサに来ていた人の半分ほどらしい。
グレゴリオ聖歌の合唱とパイプオルガンの演奏というミサの雰囲気に、仏教の法要は完全に負けていると思いましたね。
ミサの最後に聖体拝領があり、洗礼を受けていない人は聖体拝領を受け取れないが、司教の祝福を受けることができる。
見てたら祝福を受けている人が結構いるんですね。
私も祝福をしてもらおうと思ったぐらい。
ミサにの雰囲気に感動して洗礼を受ける人が少なからずいるんじゃないだろうかと思った。
ひょっとしたら砂田知昭氏もその一人かもしれないと考えたわけです。
私の知り合いに、家は仏教だけど洗礼を受け、ミサや聖書の勉強会等に出席している人が数人いる。
しかし、キリスト教徒の家で育ち、自分の意志で仏教の既成教団の信者になったという人はあまり聞かない。
どうしてなのか、そこらが問題です。
なぜ洗礼を受けなかったのかということだが、砂田知昭氏は、自分は長くないとはわかっていても、死ぬのはまだ先だと思っていたのではないかという気がする。
医者も「生きているのが不思議」という状態なのに、治療を続けていればよくなる、まだまだ大丈夫、と考えているように思った。
だから、病床で動けなくなってから洗礼を受けたのかもしれない。
本人が頼んだのか、それとも家族が勧めたのか、どっちなのだろうか。
家族に心配させないよう、何気なくふるまっていたのかもしれないが。
悟りすました坊さんが癌の宣告を受けたら死の恐怖におびえ、死後の世界としての浄土の実在を信じるようになった、という話を読んだ。
実際のところはどうなんでしょうね。
ベッドに寝ている末期の人に「今の心境は?」と聞くわけにもいかないし。
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どうしてキネ旬のベストテンに入らなかったんでしょうね。
だけど、ご指摘のようにひっかかるところも多々あります。
私はエンディングノートというのが好きではありません。
「残された家族が困る」と、いらぬお節介をされたのではもっと困りますので。
自分の人生はもちろん、死んだ後まで自分がコントロールしたいというのは、はっきり言って我執でしょう。
それと、今までちゃんと人生をコントロールしてきたという自負心があるわけで、そこには宗教を求める心はないのではないでしょうか。
なんか、「死ぬまでにしておきたい○○の事」「最高の人生の終わり方」といった感じで、こうした「いかに後悔せずに人生を終えるか」というある意味で近代的な死の受け止め方は、砂田さんに限らず多くの人にとってそうなのかもしれません。しかし、そこには何か欠けているような気がするんですよね。(それが何なのかはわからないのですが)
来月公開予定ですので、また時間を作って見てみたい作品ではあります。