三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

矢貫隆『刑場に消ゆ 点訳死刑囚二宮邦彦の罪と罰』

2008年07月07日 | 死刑

二宮邦彦は昭和31年、銀行員を殺して金を奪い(二宮はその場にいあわせただけだと、冤罪を主張している)、昭和35年、強盗殺人で死刑が確定する。

二宮は芸備銀行の独身寮で被爆している。(独身寮があったのは私が住んでいる町)
妻の浮気、離婚、そして酒びたりの日々。
借金を抱えた二宮は会社の金を横領して逃げる。
ちょっとしたことから転落の人生を歩むはめになった二宮は、ついには死刑囚になってしまった。

当時の福岡拘置所では点訳を行う死刑囚が多かったらしく、二宮も昭和37年から昭和48年の執行までの11年間、点訳をしている。
点訳したのは全部で約1500冊(タイトル数ではなく点訳の冊数。300ページの文庫本なら5~7冊ぐらい)である。
月に約11冊と、二宮自身が
手紙に書いている。
二宮は点字タイプライターを使っていたというが、それにしてもものすごい数である。

点訳本は1冊、100ページから150ページである。
『刑場に消ゆ』には、手打ちだとどんなに頑張っても1日に20ページ程度、月に6冊か7冊が限度だろうと書いてあるが、腕や肩、そして指が痛くなって、とてもそんなにできるものではない。
点字タイプライターだと肉体的な負担はかなり減るし、手打ちの3倍のスピードだというが、それでも大変である。
長時間点訳していると、どうしてもミスが増えてくる。
ミスを直すのがかなり面倒なのである。
1字だけならそこを直せばいいのだが、そうは簡単にはいかない。
というのが、たとえば「か」は1マスだが「が」は2マスなので、1マスずつずれてしまうから、その行をすべて直さないといけない。
下手をすると、そこからあとを全部やり直さないといけないこともある。

二宮は製本を自分でしていたらしい。
点訳本の製本は針と糸で紙を縫い合わせる。
当時の拘置所では確定囚に針を貸与していたわけで、今だったら確定囚に針を貸与するなんてあり得ないと思う。
以前は、確定囚がチームを作って野球をしたように、確定囚が交流することもあったが、今はそういうことは全くなされていない。

死刑囚二宮と手紙のやりとりなどで関わりを持った人は20人を超えるという。
二宮は獄中で金に不自由していたのだから、家族や親戚とのつながりは断たれてしまっていただろう。
死刑囚を支援する人たち、そして点訳を通じて知り合った人たちが物心両面から支えていたのである。

二宮が約800冊の点訳書を送った近江兄弟社図書館の元館長は
「私たちは二宮さんの死刑が執行されるとは思っておりませんでした。後になって刑務官の青木さんという人が手紙をくれまして、自分らも二宮君は死刑にならないと思っていたので驚いたと書いてありました。それくらい安心しておりましたから、助命運動をするという発想もなかったわけです」
と言っている。

『復讐するは我にあり』のモデルとなった西口彰も点訳をしている。
死刑が確定した1年後から点訳を始め、二宮邦彦が点訳の指導をしたそうだ。
西口彰は荒々しい性格で、少しも反省の色を見せないと言われている。
その西口彰も点訳本を近江兄弟社図書館に送っており、近江兄弟社図書館からは点訳のお礼と一緒に下着などの生活必需品を差し入れていた。


冬物の下着への西口彰の礼状にはこうある。
「誰からも同情されてはならない悪人の私に迄、本当にどんな表現を以てしましてもこの心の中を表すことは出来ません。特に過去の足跡が汚いものだけに、こうして戴く皆様方の温かい厚情が身にしみて嬉しさが多いだけ反省させられる訳でございます」

「諦めを求めて今に悟らざる
 除夜の鐘待つ死刑囚吾が」

橋口亮輔『ぐるりのこと。』の公式HPにこういうことが書かれている。
「(橋口亮輔)自らがうつになり、闘った苦悩の日々。そこで彼は、日本社会が大きく変質したバブル崩壊後の90年代初頭に立ち返り、自らの人生と世界を重ね合わせ、「人はどうすれば希望を持てるのか?」を検証したと言う。彼が導き出した答えは、「希望は人と人との間にある」ということ」

関係の中で人は変わっていくのかもしれない。

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