「犯罪が増えている。しかも凶悪事件が多い」と思っている人が多い。
実際のところどうなのかということで、浜井浩一『犯罪統計入門』と河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』を読んだ。
浜井浩一はこう言う。
「治安の悪化」と「重罰による犯罪抑止」は正しいのだろうか。
『犯罪白書』などで統計を調べたら犯罪が増えているかどうかがわかるかというと、そう簡単にはいかない。
犯罪の統計には、警察・検察・司法・矯正などがある。
発生件数、認知件数、検挙件数等、いろんな数字を照らし合わせて読んでいかないといけないし、社会状況、法務省の指示、警察の取り組み等によって数字は違ってくるので、そのあたりも考慮しなければいけない。
殺人の場合は、警察が認知していない数字は比較的少ないが、殺人件数には未遂と予備が含まれ、一家心中や介護疲れの殺人も多数含まれている。
さらには、人を殺しても、14歳未満や心神喪失、正当防衛等は殺人には当たらないし、殺意がない場合にも殺人とならない。
同じ1年間に発生する殺人の規模の操作的定義でも、警察の認知件数、検察の受理人員、裁判の終局事件数のどれを操作的定義として用いるかで結果は異なる。
犯罪認知件数が過去最大を記録したなどと言われている。
まず、犯罪の認知件数は、犯罪の発生を確認した件数にすぎず、全国で発生したすべての犯罪件数(発生件数)ではない。
認知件数が増えているのは犯罪が急増している証拠だと思いがちだが、実際はそうではない。
平成12年から刑法犯認知件数は激増したのは、犯罪発生件数が増加したのではなく、警察の対応が変化したことに起因している。
以前は、自動車損壊事件のように、逮捕できる可能性が低い場合、書類を作らないで済ますことがされていた。
ところが、1999年の桶川ストーカー殺人事件等への対応の不手際から、被害届を原則すべて受理する方向になり、困りごと相談等をすべて取り扱うようになった。
告訴等や被害届を積極的に受理し、相談取扱件数が激増したため、犯罪の認知件数が急増したのであって、犯罪の実数が増えたわけではない。
また検挙率が下がっていることを危惧する人がいる。
これは、相談取扱件数が増加したために、犯罪は認知したものの、処理(検挙)が追い付かない状態となり、結果として、検挙率の低下につながった。
日本の被害申告率は、かなり他諸国より低い。
日本の申告率の低さは、重大でない犯罪の多さを物語っている。
日本で多数を占める自転車盗等は、諸外国では統制機関に相手にされていないらしい。
あるいは、最近の強盗認知件数の急増は、ひったくりに毛が生えたような事件の急増である。
あるいは、少年刑法犯検挙人員が昭和50年代後半に激増した理由について、数字はあくまで少年非行の「検挙・補導人員」であり、「発生件数」ではない。
非行少年の側の実態ではなく、取り締まる側の活動の記録なのである。
少年非行が社会問題化し、人々の関心が寄せられ、強い対応が望まれれば、警察の検挙補導活動は活発化し、その結果、非行少年の検挙補導人員は増加することになる。
数字のトリックに騙されてはいけないわけだ。
では、犯罪の発生や再犯を防止するためにはどうすべきか。
ひとつは、刑罰を厳しくするという重罰化の考えである。
しかし、2004年に開催されたアメリカ犯罪学会では、重罰化には統計的に有意な犯罪抑止効果はなく、刑罰の確実性についても抑止効果は期待できないという結果が報告された。
にもかかわらず、日本でも重罰化の傾向にある。
平成6年以降の全事件裁判確定人員の推移。罰金が減少傾向にあるのに対し、懲役、禁錮は増加傾向にある。
近年、3年を超える刑の言渡しが増加傾向にあるのをはじめとして、裁判所において言い渡される刑期が長期化しており、平成10年以降、無期懲役の増加も目立つ。
さらに、無期刑については、仮出獄までの服役期間が長期化している。
昭和期においては、在所16年以内で仮出獄になるケースが半数を超えていたのに対し、平成11年以降の5年間では、仮出獄を許可された46人中41人が在所20年を超えている。
土本武司、前田雅英という大学の先生は、事件や裁判のたびに「犯罪が凶悪化している」「厳罰化しなければいけない」「少年犯罪の低年齢化」などとコメントしている。
河合幹雄は「検察官は紛れもなくこの分野での専門家であるにもかかわらず、実は犯罪情勢の悪化を戦後のどんな時期にも信じてきた、奇妙な伝統がある」と言うが、元検事土本武司が警察べったり的な犯罪情勢の悪化を憂うのも不思議ではない。
そして、前田雅英『少年犯罪』という本を河合幹雄は「犯罪統計の分析の初歩さえ踏まえていない低レベルのもの」と評価している。
前田雅英に対するこうした評価は河合幹雄だけではない。荒木伸怡立教大学教授は『少年犯罪』の書評で
とまで書いている。
マスコミはもっとまともな学者にコメントを頼めないものだろうか。
・12歳のときに実母が自殺したF君(F君は母親の自殺を一度止めている)
・そのため、普通の10代男子が母親から当たり前のようにしてもらえることを何一つしてもらえなかったF君
・それでも非行もせず不良にもならず地味に生きてきたF君
・高校時代、友人からポケットに花火を突っ込まれ火傷を負ったF君
・事件の3ヶ月前に異母弟(実母の自殺の原因になったフィリピン人の継母と親父の間にできた子供)が生まれたF君
・ちゃんと高校を卒業したF君
・山口少年鑑別所で「性格に偏りもあるが、矯正は可能」「自分を強く見せるために虚勢を張ったり、笑いを取ろうと思ってもいないことを言う未熟な面がある。」との鑑別結果が出たF君
・山口地裁の公判では遺族の無念に思いを致し涙を浮かべたF君
・その未熟な内面につけこまれ、隣の房の少年からきた不謹慎な手紙に触発され、不謹慎な内容を含んだ返事を送ってしまったF君←検察の罠? (手紙には被害者への謝罪の気持ちを綴った部分もある)
・自分なりに反省してるのにあの手紙のせいで誰からも信じてもらえないF君
・最高裁判決前の親父との面会で涙を流したF君
・2年前にキリスト教徒になったF君
・心の弱い自分を守るために筋肉トレーニングを頑張っているF君
・遺族が本村洋のような人でなければ、死刑になることはなかったであろうF君
マスコミは、山口県光市母子殺人事件では、F君に同情するような報道は一切せずに、F君を徹底的に極悪人に仕立てあげていますが、東大阪大生のリンチ殺人事件では、加害者である主犯格の21歳の男が逮捕直前に母親に送った「母さんに感謝してる。母さんの子供に生まれてよかった」というメールがニュースやワイドショーで取り上げられるなどし、一部のコメンテーターからも同情的なコメントが出されています。また、奈良放火殺人事件では、マスコミの報道は父親批判や加害者に同情するような報道が大多数を占め、厳罰志向の者が極めて多い某巨大掲示板でも、「悪いのは親父や殺された母親だ。罰を受けるべきは親父」旨のコメントが大多数を占めています。
この違いは一体何なのでしょうか。
まず、F君が起こした山口県母子殺害事件と東大阪大生リンチ殺人事件について比較しますが、東大阪大生リンチ殺人事件では、たしかに、被害者にも若干の落ち度がありました。しかし、被害者に落ち度があったとしても、あそこまで凄惨なリンチを加えていいはずはありませんし、将来ある複数の若者の命が奪われていることを考えれば、この2事件の報道姿勢にこれほどの差をつける理由は全く見当たらないと
思うのです。 リンチ殺人事件の犯人の良い所を取り上げ、同情するならば、F君に対しても少しでいいから同情すべきでしょう。
次に、奈良の事件と比較すると、奈良の少年が置かれていた環境は確かに酷く、殺害された被害者も他人ではなく身内ですから、同情の余地は大いにあり、F君の起こした事件との報道姿勢に差が出てくるのは当然ですが、いくら父親や継母から厳しい監視教育を受けていたとしても、家族を殺していい理由には到底なりませんし、放火殺人ですから、最悪の場合、隣家にまで被害が及んでいた可能性もありますし、また、殺された継母には一定の落ち度があったかもしれませんが、幼くして将来を奪われた弟や妹には何の落ち度も無かったわけです。奈良放火殺人事件の報道を見ていると、3人もの命が奪われているという結果が軽視されすぎているように感じます。そもそも、一般予防という観点から考えても、父親を責めるとともに犯人の少年に「異常なまでに」同情するような報道姿勢は、類似の事件を引き起こすきっかけともなり、あまり好ましくないと思うのです。
8月2日昼のMSNトゥディにも「奈良放火殺人の少年、泣きながら反省」という同情を引くような見出しで記事が出てました。
私はこの少年の反省を信じてますが、あえて書いておくと、検察によれば「家が灰になってすっきりした」「留置場の方が、勉強を強制されないので快適」と述べるなど反省の態度は薄いらしいです。
F君は反省していようが、信じてもらえず、命乞いだとか、見てくれの反省だとか散々言われるのに、奈良の少年にだけ、何でこのようなお涙頂戴の世論誘導が行なわれるのか、私は疑問でならないのです。
結論ですが、私はマスコミも大衆も一種のフーリガンではないかと思うのです。
大衆は、ある事件が自分にとって不快な事件であれば、被害者感情に浸りきって加害者を徹底的に攻撃して加害者の重刑を主張し、犯人と自分の境遇が重なれば、犯人に同情します。マスコミは、大衆のこのような心理をうまく利用して、大衆を煽り、儲ける。この悪循環です。
つまり、その事件が自分(大衆)にとって不快か否かが編集方針を決める際の判断基準のほぼすべてを占めているのです。
そして、このような悪循環がある以上、「判決前に判決が出ている」という状態から抜け出すことは不可能なように思います。
某業界の方でしょうか。(笑)
おっしゃることはまったくその通りだと思います。
マスコミの片寄った報道によって世論が作られ、その世論に裁判が影響されるとなると大問題です。
裁判員制度になったらどうなることやらと心配です。
また、被害者側の対応によって量刑が違ってくるとしたら大変です。
極刑を望んだら刑が重たいが、被害者側が声を出さない事件の場合は刑が軽くなるかもしれません。
被害者が声を出さないという、いい例が児童虐待です。
子どもを殺しても刑が軽い。
私が他人にタバコの火を押しつけたら、傷害罪で逮捕されても仕方ありません。
しかし、親が子どもにタバコの火を押しつけても警察は取り上げないのではないでしょうか。
マスコミは人々に受けるかどうかが第一の基準です。
犯罪だと被害者感情、あるいは犯罪に対する不安感をあおり立てたほうが受けます。
ところが、東大阪大生リンチ殺人事件、奈良放火殺人事件については、被害者と加害者がきちんと分かれていないのが特徴です。
東大阪大生リンチ殺人事件は暴行、恐喝された被害者が加害者となっていますし、奈良放火殺人事件では被害者遺族が加害者家族でもあります。
マスコミとしては、どの立場で報道するかが難しい。
また、東大阪大生リンチ殺人事件の被害者遺族は抗議の声をあげにくいでしょう。
奈良放火殺人事件だと、加害少年が受験戦争の被害者になってしまっています。
お受験殺人事件というのがあって、なぜか被害者の母親が叩かれましたが、加害者が被害者になると、新たな悪人探しが行われるんですね。
光市母子殺人事件でも、本村さんが沈黙を守り、加害少年の生育歴が取り上げられてたら、状況はまるで違っていたかもしれませんね。
従来の判決は年長少年(18、19歳)に対する死刑の適用にかなり消極的であった。
例を挙げるなら、この事件より明らかに悪質な名古屋アベック殺人事件では、犯行時の年齢や更生の可能性のほかに場当たり的犯行だったことや反省の気持ちを深めているといった事情が重視され、 当時19歳の少年だった被告の無期懲役が確定している。
ところが、今回の判決は「18歳の少年だったことには相応の考慮を払うべきである」としながらも、 遺族の被害感情にとらわれ、殺人の計画性や反省の情などについてことごとく被告人に不利益な評価をして2審判決を破棄し審理を広島高裁に差し戻した。これは、年長少年に対する死刑の適用を極めて積極的に認めようとしたものであり、不当だ。
確かに、死刑の適用基準が示された昭和58年の永山判決以前には1人を殺した事件当時18歳の少年が死刑になった例もあったが、永山判決以後に死刑が確定した年長少年はいずれも4人を殺害しているし、名古屋高裁で死刑判決を受けた連続リンチ殺人事件の3被告(事件当時18~19歳)も4人を殺害しているが、 この事件の被告は2人を殺害しただけである。
また、成人が2人を殺害したケースでも、最近20年間で計73件の死刑求刑に対し37件で死刑が回避(1審)されているのである。
その一例を挙げるなら、この事件と同程度の悪質さと言ってよい2002年の旭川3児殺傷事件は成人が2人を殺害した事件だったが、無期懲役が確定した。
このような過去の判断を踏襲せず、2人を殺害しただけの少年に対し死刑という究極の厳罰を科すことが本当に正義なのだろうか。
しかも今回の最高裁判決は、被告に非行歴がないことを有利な事情として考慮しなかった。
これはあまりに強引ではないだろうか。 まさに遺族の感情にとらわれた情緒的な見方しかしていない。
そもそも、少年による凶悪犯罪率は昭和40年頃に比べて「激減」しているのに、近年なぜか、「少年であろうが人を殺した者は自らの命をもって償うのが当たり前」という考え方が広まってきているように思うが、そのような考え方はハンムラビ法典そのものである。ハンムラビ法典的な考え方の蔓延は我が国の「退化現象」以外の何物でもない。
参考:http://www.ritsumei.ac.jp/ritsnet/tobira/column01.html (年長少年に対する死刑の是非)
今朝(たまたま途中からみたのですが)TBS(山口の差し戻し判決で少年の不利を一番煽っていた放送局)の番組で「少年たちを被害者にも加害者にもさせない」という視点からの放送がありました。
裁判での、被害者側からは加害者の罪を重く、加害者側からは罪を軽くと対決する刑罰主義では被害者も加害者も救われないだろう、この社会意識も変えていった方がいいのでは、という内容であったと思います。
やはり刑罰で罪を償うだけでは被害者もいつまでも許せないし、加害者も罪を償った気持ちにならないと思うのでお互いが話すことも大事と思いました。
もう二度と取り戻せない時間は、被害者の悲しみも怒りも大きいですが加害者の後悔反省悲しみの気持ちも大きいでしょう。
再犯率30%だから厳罰にと言う人もいますが、出所後にいじめに遭い、いたたまれず犯罪(別の)を犯しそれも再犯率に数えられることがあるそうなので、犯罪者に対して厳しすぎる見方も問題と思います。残りの70%は再犯しないということなのに一度の過ちで、社会悪(格差や携帯サイト)を放置した社会の見方は厳しいと思います。
それにしても高裁で確定したのは驚きでした。
どうして検察は控訴しなかったのでしょうか。
光市の事件が差し戻しになったこと、これは口頭弁論の期日の延期を認めなかった時点で予想されていましたね。
判事に問題があったと言えるのではないでしょうか。
> 「少年であろうが人を殺した者は自らの命をもって償うのが当たり前」という考え方が広まってきているように思うが、そのような考え方はハンムラビ法典そのものである。
その通りだと思います。
人を殺したんだから、死刑になって自分が死ぬべきだ、と言う人は多いですが、傷害でも、懲役ではなく、殴ったり、ナイフで刺したりして痛い目に遭わせるべきだ、という意見は聞きません。
刑罰の意味が応報刑ではなく教育刑なんだ、ということははっきりさせるべきです。
> 2002年の旭川3児殺傷事件は成人が2人を殺害した事件だったが、無期懲役が確定した。
これはどういう事件でしょうか。
>みいさん
> TBSの番組で「少年たちを被害者にも加害者にもさせない」という視点からの放送がありました。
「サタデーずばっと」は私も見ました。
加害者を罰する、というよりも、更正させるためにはどうすべきか、という立場で作られていたように感じました。
少年の場合ですと、教育的処遇が行われますが、成人ではほとんどなされていません。
自らの罪の自覚をうながすプログラムを刑務所でも行うべきだと思うのですが。
なぜなら、その意見たるや薄汚い偽善に満ち溢れており、光市の母子殺害事件の元少年の悪業に対しては何一つ語られておらず、すべて社会やマスコミなど責任だ、とする言わば責任のなすりつけであるからだ。
貴方達は尾崎豊に毒されすぎ。だから私は尾崎豊の歌が大嫌いだ!
その証拠に
「この少年を真人間に戻れるよう、私が徹底的に再教育させますので寛大な刑をお願いします。そのかわり、またこの少年が人様に迷惑をかけるようであれば金銭的な賠償は勿論、私を死刑にしてくれても構\わない!!」
などと言う者は一人もいないではないか。
そんなにこの元少年を助けたければこういう言葉を述べるのが筋だと思うのだが。
そういう言葉がなく、ただ他者批判に終始するあなた方がいるからこそ、少年犯罪がいつまでたってもなくならないと思うのだが。
>最近の少年犯罪の厳罰化についてずいぶん的外れな意見
犯罪学者のほとんどは厳罰化は効果がないと考えている、あるいは少年犯罪が増加しているわけではない、ということを紹介しましたが、それについて賛成できない、ということでしょうか。
>光市の母子殺害事件の元少年の悪業に対しては何一つ語られておらず、すべて社会やマスコミなど責任だ、とする言わば責任のなすりつけであるからだ。
彼が無罪であるとは思ってもいませんし、社会のせいだとは言っていません。
マスコミ報道については批判していますが、テレビ局の人も報道が片寄っていると言ってます。
それと「真人間」ということですが、どういう意味に考えておられるでしょうか。
もしも犯罪を犯さないという意味でしたら、だれでも犯罪者になる可能性はあるわけですから、真人間なんていないということになります。
レコード大賞とった、有名なホラホラ。。。
また逢う暇で~ 逢えるぅ時まで~♪
誰かが困っていても、誰も助けてくれない。
そんなとき、自分で何とか解決しようと思います。
すると世間の人は被害者を加害者と勘違いする。
世間はその人を見捨てているのと同じです。
みんな人殺しです。
私は加害者と世間に殺されました。何度も。