上横手雅敬『日本史の快楽』を読んで、菅原道真についてあれこれ考えた。
菅原道真が没した903年の6年後(909年)に藤原時平が39歳で亡くなり、923年醍醐天皇の皇子保明親王が21歳で死去、さらにその子の慶頼王は925年に5歳で亡くなった。
道真の怒りかと噂され、醍醐天皇は道真を右大臣に任命し、名誉を回復し、従二位から正二位に昇らせた。
しかし930年、清涼殿に落雷があり、天皇は恐怖のあまり病床につき、三ヵ月後に亡くなった。
人々は天皇が道真の怨霊に殺されたと考えた。
で、私の疑問。
1,時平の死、皇子の死、清涼殿への落雷と道真とをどうして結びつけたのか。
2,怨霊となって祟った道真がどうして忠臣なのか。
3,時平の讒言を入れて道真を左遷したのは醍醐天皇なのに、どうして時平が悪役なのか。
1について
御霊信仰(怨んで死んだ人間の霊魂は祟るから、御霊として祀ることで祟りを免れようとする信仰)がまずは答えである。
だけど、時平が死んだのは道真の死後6年も経ってから。
まして醍醐天皇の皇子が死んだのはそれから14年後、道真が死んで20年だし、さらには清涼殿に落雷があったのは道真の死後27年も経ってからである。
そんなに時間が経っているのに、そうした事件と道真をどうして結びつけるのか、不思議である。
御霊信仰であるが、菅原道真以外にも早良親王、崇徳上皇、平将門が有名である。
慶応3年、国学者の矢野玄道が祀られるべくして祀られていない鬼神を国家が祭祀するよう主張した建白書が、安丸良夫『神々の明治維新』に引用されている。
その中に「御霊社ニ祭ラレシモ有之候得共、南朝ノ諸名公ノ如キ、尚怨恨ヲ幽界ニ結バレ候モ多ルべく」という文章があり、安丸良夫氏はこう言っている。
「記紀神話などに記された神々と、皇統につらなる人々と、国家に功績ある人々を国家的に祭祀し、そのことによってこれらの神々の祟りを避け、その冥護をえようという思想である。こうした神々が、たんなる道義的崇敬などからではなく、祟りをなす怨霊への恐怖にもとずいて祭祀されなければならないとされたことは、注意を要する」
怨霊や祟り神を恐れる御霊信仰が神道の正統なわけである。
矢野玄道の建白書によるものか、楠木正成など南朝の忠臣、讃岐に流された崇徳上皇たち、ペリー来航以降に国事に殉じた人々を祀る神社が幕末から明治にかけて次々とつくられた。
だけど、いくら神としてあとから祀ったとしても、菅原道真たちが怨霊となったのは天皇の失政が原因だと思う。
2,怨霊となって祟った道真がどうして忠臣なのか
上横手雅敬『日本史の快楽』にこうある。
「敗戦以前の小学校の教科書は道真を重視し、一章を割いていた。当時の天皇中心の史観から見て、道真がそれほど評価されたのはなぜだろうか。
一つは道真が藤原氏と対立する立場に立っていたからであろう。藤原氏はしだいに天皇から政権を奪っていったのだから、藤原氏に対立した道真は、天皇に対する中心だったことになる。もう一つは、道真はかつて醍醐天皇から拝領した御衣をささげ持って君恩をしのび、天皇に対する忠誠心を失わなかったということであろう」
ここらはまあいいとして、「天皇を殺したのなら、道真は不忠の逆臣のはずだが、それは怨霊のほうで、真実の道真は君恩に感泣する忠臣ということなのだろうか」と上横手雅敬氏は矛盾を指摘する。
そして、「道真が君恩を忘れていなくても、天皇のほうはつれなく、生前に流罪を解かなかったのである」と皮肉り、「無実の罪を科した醍醐天皇は、暗君のそしりを免れない」ときついことを上横手雅敬氏は言う。
「時平の讒言が原因だったとしても、それを容れて道真を流したのは天皇である。後年これを撤回したのは、天皇が前非を悔いた結果である。道真への同情は、「延喜の聖王」とされた醍醐の過誤を指弾することになりかねない」
なるほどね、たしかにそうだと思います。
ということは、後世では延喜・天暦の治として醍醐天皇の治世が理想視されたが、それほど立派な天皇ではなかったということになってしまう。
3,時平の讒言を入れて道真を左遷したのは醍醐天皇なのに、どうして時平が悪役なのか
国政をほしいままにする悪大臣や王を翻弄する寵姫によって国が傾くことは古今東西よくある話で、失政の原因は結局のところ王が無能ということなのに、なぜか王が批判されることはあまりないように思う。
たとえば忠臣蔵で、浅野内匠頭を切腹させて吉良上野介にはお咎めなしという裁定をしたのは徳川綱吉である。
責められるとしたら将軍綱吉なのに、なぜか吉良が悪役になっている。
226事件でも、そもそも反乱軍兵士は政治家や財閥が諸悪の根源だと考え、天皇親政が実現すればすべてはよくなると思い込んだのだが、しかし首相を初めとする大臣、元老を任命したのは天皇である。
将校たちはその天皇の責任を問うことなく立ち上がり、天皇によって反乱軍として鎮圧されてしまった。
彼らは勘違いしていたわけである。
中国の歴史で有名な悪役が南宋の秦檜。
南宋の岳飛は金の侵攻に対して抗戦したが、金に買収された宰相の秦檜は岳飛を無実の罪で投獄し、殺害したというので、秦檜は中国史上最大の悪役とされている。
蒲松齢『聊斎志異』に「秦檜」という話がある。
「憑中堂(人名)の家で一頭の豚を殺し、毛や鬣(たてがみ)を焼いてしまうと、肉のなかに、秦檜七世の身という文字があった。煮て食おうとしたが、肉が臭悪で、食えたものではなかったから、捨てて犬にやった。ああ!秦檜の肉!犬も食わないだろう」
訳注はこう書かれてある。
「秦檜は、宋の靖康元年、金の兵が汴をおとしいれた時、徽宗欽宗二帝とともに、捕らえられて金に行ったが、撻頼善に取りいって、帰ることを許された。帰って来ると、高宗の意を迎えて宰相となり、岳飛、韓世忠等の忠臣を殺して、売国的和議を金と結んだ姦臣中の姦臣である」
それに対して岳飛はこう説明されている。
「岳飛は、少にして気節に富み、左氏春秋や孫呉の兵法に精通して、靖康の際には、しばしば敵を破り、金兵の恐るるところであったが、秦檜の誣いるところとなって、ついに殺された。大忠臣である」
岳飛は関羽のように神として祀られ、岳王廟があちこちに作られているぐらいの人気者だが、中国が社会主義国家になっても秦檜はぼろくそに扱われている。
それなのに秦檜を重用した高宗が非難されることはなぜかないらしい。
で話は飛んで、『聊斎志異』にある「秦檜七世の身」の「七世」ということ、「七生報国」の「七生」と同じ意味だと、上横手雅敬『日本史の快楽』を読んで思った。
「七生」とは七たび生まれ変わるというだけでなく、永遠をも意味するそうだ。
「秦檜七世の身」ということも、秦檜は永遠に豚として生まれるようなクソ野郎だということかもしれない。
楠木正成が「七生報国」と言ったと思われがちだが、湊川の合戦の際に正成の弟正季が「七生まで同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさばや」と言ったのが、いつのまにか「七生報国」という言葉になったそうだ。
上横手雅敬氏によると、「七生報国」という言葉が使われるようになったのは昭和10年ごろからである。
「「七生滅敵」であり「七生報国」ではない。だれが「七生滅敵」のかわりに「七生報国」などという言葉を捏造したのか、何か腹立たしいような気持ち」だと上横手雅敬氏は言う。
なぜ腹立たしいか、上横手雅敬氏は「朝敵を滅ぼすのは後醍醐天皇には忠義かもしれないが、永遠に殺戮を続けると誓うのは悲しいことだ。だから正成はそれが「罪業深き悪念」であることを自覚している。そしてこの悪念によって成仏できず、怨霊となるのである」と書いている。
正季の言葉に対して正成は「罪業深き悪念なれども、我も斯様に思うなり」と答えている。
つまり、罪業が深いことを自分たちはしようとしていることを楠木兄弟はわかって、なおかつ七たび生まれ変わるぞと言っているのである。
右翼の街宣車に「七生報国」と書かれてあるのを見かけるが、彼らは自分たちは罪深いことをしているとどれだけ自覚し、地獄に落ちて怨霊となる覚悟があってのことなのだろうか。
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