山本博文「日本人の名誉心及び死生観と殉教」(竹内誠監修『外国人が見た近世日本』)に、ザビエルが書簡でボンズ(坊主)に言及している部分を引用してあったので、『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』を見てみました。
日本の仏教事情について詳しく書かれてあるのは、書簡90(1549年11月5日鹿児島からゴアのイエズス会員に出された)と書簡96(1552年1月29日コーチンからヨーロッパのイエズス会員に出された)です。
どちらもかなりの長文です。
ザビエルは1549年8月15日に鹿児島に到着。
1550年8月に平戸、10月に山口へ。
1551年1月に京都へ行き、3月に平戸に戻り、4月に山口、9月に大分。
1551年11月15日、大分からインドへ出帆。
日本に滞在したのは2年3か月ということになります。
書簡90は日本滞在3か月で書かれたためか、ボンズ(坊主)をほめている個所がありますが、書簡96ではけなしまくっています。
( )の中は訳注、[ ]は補注です。
4 この地には修行生活をしている男や女がたくさんおります。彼らのあいだでは男をボンズと呼んでいます。さまざまな宗派があって、ある者は褐色の衣をまとい(一向宗の僧侶)、他の者は黒色の衣を着ています(禅宗の僧侶)。そしてお互いにあまり親しくしていません。黒衣のボンズは褐色のボンズをたいへん嫌い、褐色のボンズは無知で悪い生活をしているといっています。比丘尼[ボンザ]たちのうちのある者は褐色の衣をまとい、他は黒色の衣を着ています。(略)
訳注によると、褐色の衣を着た僧侶は一向宗の僧侶です。
どうして一向宗なのかというと、「褐色の衣服を着けたボンザやボンズたちはすべて阿弥陀を拝んでいます」という書簡96の記述があるからです。
書簡96に「それぞれ異なった教義を持つ九つの宗派があって」という文章があり、訳注には、九つの宗派とは天台宗、真言宗、融通念仏宗、浄土宗、臨済禅宗、曹洞禅宗、一向宗、法華宗、時宗とありますから、一向宗とは浄土真宗のことでしょう。
しかし、浄土宗、時宗、融通念仏宗も阿弥陀仏を拝みますから、阿弥陀を拝むということだけで、褐色の衣を着ているのが浄土真宗の僧侶かどうかはわからないはずです。
そもそも、どうして「浄土真宗」ではなくて「一向宗」という宗派名を訳者は使ったのか。
蓮如『御文』に「開山は、この宗をば浄土真宗とこそさだめたまえり。されば一向宗という名言は、さらに本宗よりもうさぬなりとしるべし」とありますから、本願寺教団が「一向宗」と称していたわけではありません。
臨済禅宗、曹洞禅宗という名称もおかしいです。
僧侶は尊敬されていたと、書簡90にザビエルは書いています。
46 (略)日本人のうちにはボンズが大勢いて、その罪はすべての人に明らかですけれど、彼らはその土地の人たちから、たいへん尊敬されています。なぜこのように尊敬されているかというと、厳しい禁欲生活をしているからだと思われます。彼らは決して肉や魚を食べず、野菜と果物と米だけを食べ、一日に一度の食事はきわめて規律正しく、酒は与えられません。
どの宗派の僧侶も、生き物を殺さず、殺した生き物を食べないこと、盗みをしないこと、姦淫をしないこと、嘘をつかないこと、酒を飲まないことの五戒を守っているから尊敬されていると説明します。
ところが書簡96では、僧侶は五戒を守らないと書いています。
27 (略)ボンズもボンザも、公然と酒を飲み、隠れて魚を食べ、話すことに真実がなく、平気で姦淫し、恥ずかしいとも思っていません。すべての[僧侶たちには]破戒の相手となる少年がいて、そのことを認めたうえに、それは罪ではないと言い張るのです。(略)
男色も姦淫です。
ザビエルは僧侶の男色を特に非難しています。
16 世俗の人たちのあいだでは、罪を犯す者は少なく、彼らがボンズと呼んでいる僧侶たちよりも、道理にかなっ[た生活をし]ています。ボンズたちは自然に反する罪を犯す傾きがあり、またそれを自ら認め、否定しません。これは周知のことであって、老若男女誰もがきわめて普通のことであるとして、奇異に感じたり、忌まわしいこととは思っていません。ボンズ以外の人びとは、ボンズたちの忌まわしい罪を非難するのを喜んで聞きます。彼らはそのような罪を犯す者がどれほどの悪人であるか、またそのような罪を犯すことで、神をどれほど侮辱しているかを主張する私たちに正しい理由があると考えています。
私たちはしばしばボンズたちにそのような醜い罪を犯さないように言いました。[しかし]ボンズたちは、私たちの言うことをあざ笑ってごまかし、きわめて醜い罪について非難されても、恥ずかしいとは思いません。ボンズたちはその僧院の中に読み書きを教えている武士の子供たちをたくさん住まわせて、この子供たちと邪悪な罪を犯していますが、この罪が習性となっているので、たとえすべての人たちに悪であると思われても、それに驚きません。
一般の人びとが男色を何とも思っていないことにザビエルは驚きます。
18 この地の二つの[習慣]について、あまりにもひどいので驚いています。その第一は、これほど大きな忌まわしい[ボンズたちの]罪を見ていながら、人びとはなんとも思っていないことです。昔の人たちがこうした罪のなかで生活することに慣れてしまったので、現在の人たちも前例に倣っているからです。人間の本性に反する悪い習慣を続けることで、生来あるべきものが堕落することは明らかですし、不完全なことを[自覚しないで]無関心のまま[生活して]いることにより、完徳を損ない、破滅させていることは明らかです。
その第二は、世間一般の人たちがボンズたちの生活よりも正しい生活をしていることです。このことははっきりしているのに、ボンズたちが人びとに尊敬されているのにはあきれるばかりです。ボンズたちには、他にもたくさんの過ちがあり、[世間一般の人びと]より高い知識を持っているボンズたちのほうがより大きな過ちを犯しているのです。
おもしろいのが、人びとは僧侶の妻帯は汚らわしいと考えているということです。
17 ボンズたちのうちには、修道者のような装いをし、褐色の衣を着て、頭もあごひげも三日か四日ごとに剃っていると思われる人たちがいます。彼らは思いのままに生活し、同じ宗派の尼僧(比丘尼、ボンザ)とともに生活しています(注)。一般の人たちは[ボンズたちのこの生活を]非常に汚らわしいと考え、尼僧たちとの親しい交わりを悪いものと考えています。世俗の人たちの言うところでは、尼僧たちの誰かが妊娠したと気づくと、すぐに堕胎するために薬を飲んで処置するとのことで、これは周知のことです。僧侶や尼僧の住居を見たところでは、世俗の人たちがボンズたちについて考えていることには、十分な理由があると思われます。ある人たちにこの僧侶たちは他の罪を犯すのかと質問しますと、読み書きを教えている少年たちと罪を犯すと言いました。修道者のような服装をしているボンズたちと聖職者のような服装をしている[禅宗の]ボンズたちとは、互いに反目しあっています。
訳注には、褐色の衣を着たボンズとは「妻帯している一向宗の僧侶のこと」とありますし、山本博文氏は「薩摩藩での一向宗の禁制の理由の一端がここに示されている」と書いています。
しかし、浄土真宗には尼僧はいません。
当時の本願寺教団は強大ですから、浄土真宗の僧侶が妻帯していることは人々に周知されていたと思います。
妻帯を隠しているわけではないので、妊娠したからといって堕胎薬を飲むはずはありません。
ザビエルの誤解か、あるいは褐色の衣を着た僧侶は浄土真宗以外の宗派かだと思います。
また、山本博文氏の論に従うなら、薩摩藩は僧侶の男色はOKだが、女色は弾圧する理由になることになります。
書簡96には、山口で街頭で説教をしたが、「この人たちは、一人の男は一人の妻しか持ってはならないと説教している人たちだよ」とか、「この人たちは男色の罪を禁じている人たちだ」とあざ笑う人がいたとあります。
日本人の性に関しての寛容さはザビエルには理解の範囲を超えていたのかもしれません。
http://u0u1.net/HRYI
ザビエルを含む、宣教師たち、そして彼らのバックにいる覇権国家スペインやポルトガル(イエズス会自身はグローバル組織ですが)の全体像が良くわかります。ローマ法王は西へはスペインを、東はポルトガルが盗りに行けと命令するんですよね。で、サラゴサ条約ってへんな線引きを勝手にする。
それからホセ・デ・アコスタなんていう人は、異民族を三分類して、まともな「文字文化と国家機構を持つ中国や日本」、合格点は「文字文化は持たないが国家機構はもつインカ」それから「獣同然で人間の感情を持たない種族」とランク付けする。
うーん。この発想があるから、イルカさんは食ったらあかんとか言い出すのでしょうか。でも彼らの功績は日本語の研究に対する貢献かも知れません。
『日本語の歴史〈4〉移りゆく古代語』の第五章はとても面白かったです。
http://u0u1.net/HS10
「グルジア」が「ジョージア」に変わったように、外国の名前をどう表記するかは難しい問題ですね。
「スペイン」は英語、「イギリス」はポルトガル語だそうです。
人名となると、さらに面倒で、アメリカのレーガン大統領を「リーガン」と表記してました。
東洋の宗教は寛容だと言われてます。
しかし、ビルマ(ビルマ難民の方がミャンマーという名称は使わないと言われたので)のロヒンギャ弾圧を見ますと、そんなことはないなと思わされます。
小説の『沈黙』の細部は忘れたので間違ってるかもしれませんが、映画では最後まで転んでないなと思いました。