「日本を、取り戻す」ということ、自民党の手に取り戻すということでなければ、何を取り戻すのだろうかと思う。
戦前、戦中の日本がいいというわけではないだろうし。
堀田善衛『インドで考えたこと』は、第一回アジア作家会議の日本代表として、1956年晩秋から1957年初にかけて、インドに滞在した時の記録。
見たことは少しで、ほとんどは考えたことばかり。
50年前の日本について、堀田善衛はこのように書いている。
「日本の電気、ネオンサイン、すさまじい消費。(略)ここインドでは、紙がない、紙は貴重なものだ。東京では、紙どころか、もう新聞紙に包んでおけばいいようなものまで、ビニールに包んでいる。われわれはものすごい勢いで新しいものをつくり、それをまた猛烈な勢いで消費している。要するに、消費のための消費」
昭和31年はもはや戦後ではないにしても、まだまだモノが豊富とは言えないと思うのだが、堀田善衛によるとすでに消費社会ということになる。
「しかし、怖ろしいスピードで走り、そのかげで、いったいわれわれの、モノではない方の、本物の心の方は、本物の創造の方はどうなっているのか」
「戦後レジームからの脱却」を訴えている安倍晋三首相だが、堀田善衛の戦後の日本批判に同意するとは思えない。
人間や社会は成長しているかどうか。
たとえば、親が経験したことが遺伝するなら、足し算や引き算を子供に教える必要はない。
だけど、親が苦労して学んだことであっても子供にはなかなか伝わらない。
社会はたしかに変化しているが、人間は精神的に成長していないと私は思う。
だからこそ、50年前の堀田善衛の指摘がいまだに有効なのである。
「五十年後の日本――私はそんなものを考えたこともないし、五十年後の日本について現在生きているわれわれに責任があるなどと、それほど痛切な思いで考えたこともない。われわれは日本の未来についての理想を失ったのであろうか。一般に、長い未来についての理想をもたぬものは、それをもつものの未来像のなかに編入されて行くのが、ことの自然というものではなかろうか。何かぎょっとさせられる」と堀田善衛は書いている。
だからといって、神武建国の精神に復ることが「日本を、取り戻す」だと言われては困る。
だけど、そうなったら50年後の日本がはたして存在しているかと心配です。
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