息子がイタリア料理店でバイトをしている。
イタリア料理といっても、スパゲティやピザが4~500円程度なんだそうだ。
先日、店のピザを息子が買って帰ってきた。
ピザの生地にトマトソースがかかっているだけのシロモノ。
で、思いだしたのが『自転車泥棒』である。
ヴィットリオ・デ・シーカ『自転車泥棒』は失業中の父親と息子が主人公の、どうしようもなく暗いネオリアリスモ映画である。
父親が奮発して息子とレストランに行くシーンがある。
父親はピザを注文する。
するとウエイターが「うちはレストランですからピザはありません」と答えたのには、ええっ、と思った。
ピザはイタリア料理じゃないか、高級料理じゃないかと、そのころの私は思っていたわけです。
で、息子が買ってきたピザを見て、もともとピザというのはこういうものなのかと納得し、そしてさらにお好み焼きのことを連想した。
私の父の話だと、お好み焼きは戦前は一銭洋食という名前で、お好み焼きの皮(クレープの皮みたいなもの)に魚粉をかけ、醤油を塗っただけというもので、値段が一銭だったそうだ。
息子がバイトしている店のピザは、まさにイタリア版一銭洋食である。
私の小さいころはお好み焼きと言えば野菜入り(キャベツと天かす)が普通だったが、今はソバ・肉・卵という定番に加え、いろんなものをトッピングできる。
しかし、お好み焼きの中身がだんだんと豪華になっても、日本料理店でお好み焼きを出すところはないだろう。
現在のイタリアでは、レストランのメニューにピザはあるのだろうか。
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子どもの頃、夜店でよくみかけましたがこれも最近ぽつぽつ売ってます。
ところで、このピザとよばれるものが、時代によってその中味を変える。これは、そもそも言葉で名指しされるモノには決まりきった実体がないという諸法無我と諸行無常という「真理」をわれらに告げているという例えなのですね。そして、本場イタリアでは庶民の味であったピザを、日常に食する文化を持たなかった日本では、イタリアの高級料理に見えた、と。いやはや、円さん勉強になりました。
すると、京都祇園の壹錢洋食という店のHPがあり、2年前にここで一銭洋食を食べたことを思い出しました。
いやお恥ずかしいことです。
http://www.issen-yosyoku.co.jp/
広島の一銭洋食の作り方を書いたサイトもありました。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/~mizusima/issen.html
どちらにしろ、父が言ってた一銭洋食よりは豪華な感じがします。
そこで父(昭和4年生まれ)に聞きますと、お好み焼きの皮に入れる具はネギと鰹節の削りカス、ウスターソースは高いので、醤油に唐辛子を入れたもの、値段は5円ぐらいだったそうです。
>本場イタリアでは庶民の味であったピザを、イタリアの高級料理に見えた
ま、欧米のものはすべて高級という思い入れが私にはいまだにありますからね。
高級料理店の反対語は大衆食堂ということになるんでしょうが、となると大衆食堂とは低級料理店、下級レストランになるんですが。
ここから、『1リットルの涙』とか、『海を飛ぶ夢』とかのテーマ。。。生きていることに何の意味があるのっていう切実な問いとつながってくる。で、意味って何でしょうか。碁や将棋やオセロを例にとれば、「勝つ」という目的において効果的な一手。それは意味ある手。
お金を儲けることや、出世すること、選挙で躍進することを「勝つ」と呼ぶならば、意味はおのずと決まってくるけど。
ジャイナ教では、(人生に打ち克った)勝利者をジナというんでしたっけ。この「人生に勝利する」というのは、難しいな。それだから、ニューエイジのように、この世というのは輪廻転生する人生にあって、成長の一段階であーるというような物語が受け入れ易いんだと思います。
で、ここでそういうおとぎ話をするのではなく、また「鬼面人を驚かす」たぐいの人生極めちゃったみたいな言葉で人を煙に巻くのでもなければ、何が言えるのか。ここで、野矢茂樹さんという人の本をかなり引用しているブログがあったので、のっけときます。
http://sekai.bblog.jp/entry/191617
本願力にあいぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
なんて、ホントですかねえ。
親鸞さん、空しくない人生を過ごされたのでしょうか。
うらやましい話です。
前にも書きましたが、「そうじゃない」ということは、真宗では割と簡単に言えるんですね。
それは正しくない、間違っている、だから空しいでしょ、と。
ところが、「これだ」とは言えない。
それはこうなんですよ、空しくすぎないでしょ、とはね。
プロジェクト卍さんに教えられたブログを見ますと、諸富祥彦の本について書かれてました。
http://sekai.bblog.jp/entry/212412/
1月6日のブログで諸富さんのことを書きましたが、この人は間違いなく神秘主義者、ニューエイジャーですね。
諸富祥彦「人生に意味はあるか」という本には、「私の答え―いのちが、私している」という章があるそうで、やはり「今、いのちがあなたを生きてる」は怪しい。(笑)
それにしても、親鸞仏教センターや真宗会館がこういう人物にエッセイを書かせ、インタビューするなんて、どういう神経しているんでしょうか。
>この世というのは輪廻転生する人生にあって、成長の一段階であーるというような物語が受け入れ易い
成長神話、上昇神話とでも言うようなのがあるんだと思うんですよ。
成長することに人生の意味を見出そうとしているわけでしょう。
プラスがいい、プラスにならなくては、というのが身についてしまっている(私もそうです)。
だけど、向上・進歩・発展なんて言う人は、もう真宗じゃない!、と私なんか思いますね。
人生の意味について、私の思いつきを明日のブログで書きます。