三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

スタッズ・ターケル『「よい戦争」』3

2013年04月05日 | 戦争

原子爆弾によって被害を受けたアメリカ人たち。
マーニア・セイモア「原子爆弾製造工場」
夫はテネシー州オークリッジにある原爆製造工場で働いていた。
工場で働く夫婦のうち、セイモアたち18組の夫婦のほとんどは子どもがいない。
セイモアには4人いるが、2人は障害を持って生まれた。
「ぜんぜん警告されなかったって? そりゃ、もちろん、ぜんぜんよ。悪意があったとは思わないけどね。ようするに知らなかったのよ」
友人がたくさんビキニでの実験を見にいったが、ほとんどは癌になってるか、癌で死んだかである。

「私たちはものすごくカッコいい気分だった。
その私たちが、その後どうなったと思う? コネティカット州のニューキャナーンに住んでたんだけど、ノーマン・カズンズが広島乙女を何人か連れてきて、私たちはこの不虞にされた、ケロイドの女性たちにむかいあわされたの。スーパーマーケットでよくみかけるたびに、ああ、これが私たちがカッコいいと思ってることがしたことなんだってね。ときどき泣けてしまう……
アメリカ人は世界のことを知らない国民だったのを気づくべきよ。孤立した大国だったのよ。日本人のことも日本の文化のこともたいして知らなかった。黄色で、目つきが悪く、みんな悪人だった。日本人は映画のなかで、かならず悪人だったでしょ。こそこそ歩きまわって、陰険なことをする役よ。人間としてじゃなく、撲滅するべき黄色いちびにすぎないと思いはじめちゃう。ドイツ人とはちがうっていう感じだった。もし、X人の捕虜しか救えない。それで、たとえば、五十人の日本人と五十人のドイツ人だったとすれば、だれを見殺しにして、だれを救うか。そういわれれば、私はドイツ人を救ったでしょうね。すくなくとも私の知識では、ドイツ人のほうが文明的だったからね」

ジョン・スミザマン「ビキニ原爆実験」
スミザマンは全米原爆復員兵協会(NAAV)の会長。
会員は1万5千名強。
ジョン・スミザマンは両足を切断しており、左手は普通の五倍の大きさ。

1945年17歳で海軍に入る。
1946年7月のクロスローズ作戦(ビキニ環礁の実験)に参加した。
標的艦船のインディペンデンスの消火作業をした。
危険だということは知らされていなかったし、何の注意も受けなかった。
泳いだり、礁湖からとった水を飲んだりしたが、規制は何もなかった。
放射能のことは何も聞いていない。

8月末に、50セント銀貨ぐらいの大きさの赤いヤケドみたいなものが両足にでき、一週間ぐらいして、両足が腫れる。
1947年に、医療のために除隊する。
1977年に両足を切断した。
左手も切断しないといけない。

ビキニであびた放射能はこんな障害をおこすほどじゃないと、復員軍人局は病気が軍務に関係していることを認めない。
1982年には、集まった募金で日本で治療を受けた。
しかし、アメリカに帰ってから同じ治療をつづけられない。
「放射線にさらされた兵隊っていうのは、まるで目のまえに敵がいて水平撃ちされたみたいなもんでしょ。逃げられないんですよ。三十年、四十年たたないと障害がでてこない」
「私としては、みんながモルモットとして使われた感じなんですよ」
ジョン・スミザマンは1983年9月11日に死去。

広島・長崎への原爆投下は被害がどれだけになるかという実験が一番の目的だったと思う。

そして、意図していたかはともかく、アメリカは自国民も「モルモット」にしたということである。
30年、40年たたないとわからないということでは、福島原発も同じである。

加藤倫教「『愛国』と『愛国家』をすり替えているのが権力者で、あんたがたが言うのは『愛国』でなく『愛国家』でしょうと言うんだけど。国家を愛しなさい、国家に忠誠を誓いなさいであって、国を愛しなさいじゃないでしょう。ほんとうに国を愛しているのなら、田舎が荒廃していくのを黙って見ていることはせんでしょうと」(朝山実『アフター・ザ・レッド』)

コメント (7)
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