三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

デイヴィッド・ダウ『死刑囚弁護人』

2013年04月15日 | 死刑

『死刑囚弁護人』の著者デイヴィッド・ダウは大学教授で、死刑弁護人。
死刑囚弁護人という仕事はたぶん日本にはないと思う。
死刑になるかもしれない裁判の弁護人ではなく、死刑が確定した死刑囚の弁護人として、執行の延期、減刑、恩赦、再審などを裁判所に訴えるという仕事である。

『死刑囚弁護人』には、死刑弁護人としての仕事や死刑囚のことだけでなく、妻と6歳の息子との愛にあふれた暮らしが交互に描かれるためか、ノンフィクションというより小説という趣である。

死刑弁護人には守秘義務があるので、名前はもちろん、多くのことが変えられているそうだ。

「だが、その裁判は事実である。裁判所や裁判官は、まさに本書に記述したとおりの振る舞いをした。なかには、裁判席から降ろすべきだと思う裁判官もいる」

デイヴィッド・ダウは「悲しみをおぼえない処刑もある」と言う。
たとえば、自分の息子の目の前で、息子の母と祖母を素手で殴り殺したグリーン。
「すべてのクライアントに好感が持てるわけではない。グリーンは嫌いだった。彼もまた、死刑支持者が必ず犯す誤りを犯していた。死刑囚の弁護を引き受ける以上、死刑囚のことも好きに違いない、と思っているのだ。死刑に反対していて、彼が処刑されるべきではないと考えるからには、彼の犯罪を許しているはず、と思い込んでいる。あいにくだが、私はグリーンのような人間を許す立場にはいない。もしそうだったとしても、許しはしない」

グリーンは、同じ死刑囚のクエーカーは無実だと証言する。
クエーカーは別居中の妻と二人の子供を射殺したとして死刑になったのだが、どうやら冤罪らしい。
このクエーカーが『死刑弁護人』の中心人物の一人である。

一審はアル中の無能弁護士ジャック・ガトリングが弁護した。
ある弁護士が「たったそれだけで、どうやってその男の有罪を証明したんだ」に尋ね、デイヴィッド・ダウが「弁護人がジャック・ガトリングだったんだ」と答えと、すぐに納得したという、有名な無能弁護人である。
二審の弁護士は無能ではなかったが、何もしなかった。

デイヴィッド・ダウたちの働きにもかかわらず、クエーカーは処刑される。
なぜデイヴィッド・ダウはほとんど敗訴し、精神障害者や知的障害者の死刑囚だったり、無実であっても、処刑されて死んでいくにもかかわらず、死刑弁護人という仕事を続けるのだろうか。
「自分が動いたところで何も変わりはしない。でも、彼を助けようとする人間がいるってことを知ってほしいんだ。世界で自分だけ一人ぼっち、という気持ちになるほどつらいことはないからね」とデイヴィッド・ダウは言う。

「誰から何かをしてあげたとする。その人がいままでほんの小さな親切ですら受けたことがなければ、その行為がどんなつまらないことであっても、あきれるほど感謝されるものなのだ」

こんなことが『死刑弁護人』に書かれてある。
「二年前のことである。一人の教誨師がクライアントたちに聖書を読み聞かせるようになった。するとクライアントたちが次々と上訴権を放棄したいと言い始める。教誨師は、悔い改めればイエスは許してくれるが、もし上訴して争うようであれば、地獄で灼かれる、と説いていた。彼のなかでは、不服申し立ては争いにほかならない」

これを読んで思い出したのが、大阪拘置所長を務めた玉井策郎氏である。
玉井策郎『死と壁』を読むと、死刑廃止論者の玉井策郎氏は死刑囚の処遇が寛大だったことがわかる。
しかし、玉井氏の在任中は再審請求する死刑囚はほとんどおらず、おとなしく処刑されていった。
人間的な処遇をすることで再審請求をしなくなるのだったら、現在の非人道的な扱いのほうがましだということになる。
やっかいな話ではあります。

コメント (4)
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