三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

いのちはだれのもの?

2013年04月08日 | 青草民人のコラム

青草民人さんです。

先日、学校保健会という会合で、「誕生学」というテーマでの講演会が開かれた。誕生学という言葉は、聞き慣れない言葉であるが、いのちの尊さを赤ちゃんの誕生という事実と向き合いながら考えていく、いわゆる性教育という身体の機能的な話だけに止まらない、いのちの大切さを子どもたちに、学んでもらう学習を意味する学習である。

講演は、地域や保護者、教職員が対象だったが、実際には講師の先生が教室に出向き、子どもたちに赤ちゃんの生まれてくる様子を説明しながら、出産のときの両親の喜びやかけがえのないいのちが自分たちであることを教える。赤ちゃんはお母さんのお腹にいるときから、いのちを育み、自分で生まれてくることや、へその緒の長さは、生まれてきたときにお母さんが抱っこしてあげるだけの長さになっていることなど、誕生に関する事実に驚きと感動を覚えた。

もう一つは、お葬式。先日、突然本校に縁のある方が癌で亡くなられた。あまりに急なことだったので、驚いたが、棺のお顔は安らかに笑ったようなお顔だった。生前の故人が偲ばれる。その時、ふと誕生学のことが思い出された。人は生まれてくるとき、いのちを授かって生まれてくる。これは父や母だけでなく、連綿と続いてきたいのちの連鎖であり、自分の処に届けられたいのちは、多くのいのちが体験してきた困難と偶然性を乗り越えて伝えられてきたものである。


さて、「授かりもの」という言葉が気になった。いのちは「授かったものなのか?」


ここに大きな落とし穴があるような気がした。亡くなった方のご遺体を見ながら、ふといのちをお返しになったのだなと。私は、そのとき、いのちは「授かった」というよりも、「預かった」ものなのだと感じた。あらゆる縁の中で自分という器に届けられた「いのち」は、生まれてから死ぬまで、個人という器の中で、その個人を成長させ、人生という歴史を刻み、そして、「いのち」を次の世代に受け継いでいった。その役目を果たした器である個人は、預かった「いのち」をお返しした安堵の笑みをたたえて、安らかにまた器にもどる。


預かったものは、いつかは返さないといけない。人から預かったものを我が物とすることは、泥棒のようなもので、そこにいろいろと間違いが生ずる。返す期限や返し方は人によってさまざまだが、必ず返すことには違いがない。仏様から預かった大切ないのち。返し方は様々だが、わざわざ自分から返しに行くことはない。


生まれてきた喜びとともに、人はいつか死を迎えること。それが、恐ろしいことや悲しいことかもしれないが、授かりものは返したくなくなるのが人の世の常、しかし、預かったものは、いつか持ち主にかえさないといけない。いのちの学びには、必ずそのことを合わせて教えてほしい、というか私自身が教えなければいけないと感じた。生者必滅、会者定離。生死一如をいきる器としての自分をはたらかせてくれている、大切な仏様からの預かりもの。せめて、赤いバラのリボンでも付けてお返しできたら、いいな。

コメント (4)
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