三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

司馬遼太郎「心と形」3

2012年12月11日 | 仏教

司馬遼太郎氏は「心と形」で、「仏教ではいっさいの〝我〟は固体的実体ではない、というのです。人間の迷いは、〝我〟が固体的実体だと思いこむことから生ずる、〝我〟もまた仮のものだ、という。
またそのように思え、というのです。さらには〝我〟を無くすべし、「無我」こそ、宇宙の原理(仏)に一体化してゆくための実践の道である、というのです」と話しています。

中村元氏は、大乗仏教では「無我とは、ものに我(永遠不変の本体・固定的実体)のないこと」と論ぜられたと説明しています。
司馬遼太郎氏の言う「宇宙の原理」は「永遠不変の本体・固定的実体」のように思うのですが。
また、「宇宙の原理に一体化」ということは、手塚治虫『火の鳥』や『ブッダ』であらゆる存在が火の鳥で象徴される宇宙生命と一体化するような感じを受けます。

遠藤周作氏の考える死後も『火の鳥』的です。

キリスト教で言う復活についての質問に、遠藤周作氏はこう答えています。
「あなたは復活と蘇生と間違えているようですが、復活というのは蘇生と違いますよ。復活には二つの意味があります。
イエスの死後、使徒たちの心の中で、イエスはキリスト(救い主)という形で生き始めました。イエスの本質的なものがキリストで、その本質的なものが生き始めたということです。現実のイエスよりも真実のイエスとして生き始めたこと、これが復活の第一の意味です。
それから、イエスが復活したということは、彼が大いなる生命の中に戻っていったことの確認です。滅びたわけではなくて、神という大きな生命の中で生前よりも息づいて、後の世までも生きていく。これを復活と言ったのだと思います」
私は、キリスト教は肉体の復活を説いていると思っていました。

そして、遠藤周作氏は「あなたは、死後の世界について、どう考えておられますか」という問いの中でこんなことを述べています。

「死後の世界について、カトリック教徒はどう考えるのか、それは人が死ぬとキリストの入っていった永遠の世界へ戻ると考えるのです。それを天国、神の国というのですが、要するに神の生命の世界なのです」
「神の生命の世界」とは何か。
「仏教では生まれる前の世界を考えますが、カトリックのほうでは、人間が生まれる前は生命がなかったんだから、神の生命体の中へ行けるというふうに考えていると思います。
私の場合、そこへいろんなものが入っています。母に会えるとか、兄に会えるとか、日本人だから仏教的な感覚もあります。(略)親しい人たちもそこにいて、そこで会えるという確信が私にはあります」

「宇宙の原理」とか「神の生命体」というのはブラフマンみたいです。
梵我一如を釈尊が否定していたかどうか説が分かれますし、大乗仏教は梵我一如的だと言う人もいますから、梵我一如は仏教ではないとは言えませんが。

「心と形」での司馬遼太郎氏の考えについてですが、もう一つ、寺院に墓があることは「死霊の管理」だということにも賛成できません。

仏教は霊魂を否定しているわけですから。

墓に骨を収め、墓参りをするのは情だと思います。
親しい人の死を悲しむのは、その人に執着しているからであり、煩悩です。
しかし、煩悩をなくせと言われても無理なように、死別の悲痛は人間の情ですからなくなりません。
というか、なくすべきではありません。

仏像がどうして作られるようになったかを考えてみたらいいと思います。
仏像は釈尊が生きている間はもちろん、入滅後もしばらくは作られませんでした。
しかし、釈尊を慕う人たちが釈尊の姿を形に表そうとして仏像を作るようになります。
仏像を拝むのは土や木に対してではなく、仏像という形をとおして釈尊の心をいただくことです。

墓も同じことで、死者を敬慕して墓を作り、墓を通して死者を偲ぶわけです。
ただし、そこに追善、慰霊、鎮魂という気持ちがあるなら、「死霊の管理」になるかもしれませんが。
形だけだとしても、日本の仏教が現在まで続いているのは、そうした形によってだと思います。

コメント (6)
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