三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

司馬遼太郎「心と形」1

2012年12月05日 | 仏教

知人から司馬遼太郎「心と形」を勧められたので、「心と形」が収められている『春灯雑記』を読みました。
たまたま同じころに読んだ遠藤周作『私にとって神とは何か』に、「なぜ仏教ではなく、キリスト教を信じつづけるのですか」と問われた遠藤周作氏が、仏教についてこのような説明をしています。
「仏教では、この世にあるものはすべて頼りがたいものである。それ自体で存在しているものはひとつもない、お互いもたれ合っている、それが空だという考えでしょう。すべての頼りがたいものを放棄して、煩悩、執着、つまり欲望―五蘊悪性というか、そういう執着するものを捨ててしまって仏にすがる」

私は不勉強で、五蘊悪性とはどういうことか知りませんが、遠藤周作氏の言ってることはおかしいです。
煩悩や執着を捨てることができるなら、わざわざ仏にすがる必要はありませんから。

その点、司馬遼太郎氏は「原始仏教には救済の思想はありませんでした」と明快です。
「仏が人間を救済してくれるという要素は、大乗教典以前にはほとんどありませんでした」
仏教にはもともと救いは説かれませんでしたが、大多数の人は煩悩や執着を捨てることは不可能です。
そこで大乗仏教で利他が説かれるようになりました。

では、救いとは何か?
司馬遼太郎氏にとって救いとは浄土往生なのでしょう、「心と形」でこういう問いを発します。
「私の家の宗旨は浄土真宗ですから、死ねば私はお浄土へゆくことになります。しかし、私を構成している何がゆくのでしょう」
なぜこのように問うかといえば、仏教では霊魂を否定するからです。
「仏教そのものが、人間には霊魂があって、肉体がある、というようなキリスト教的な霊的二元論はとっていません。
そうなると、親鸞思想(浄土真宗)にあっては何がお浄土にゆくのか、朽ちはててゆく肉体をふくめてぜんぶがゆくのか、という点で、あいまいさが残るのです。
浄土真宗にかぎらず、本来の仏教にとっては霊魂(アニマ)などは存在しません。
先祖が冥々裡に現世に影響をあたえるという意味での祖霊思想も仏教にはありませんし、菅原道真の怨霊がたたりをおこなったという御霊思想も、むろん存在しません」

「心と形」は東北大学医学部同窓会総会での講演をもとにして加筆されたものです。
おそらく臓器移植について話をしてほしいと頼まれたのではないでしょうか。

司馬遼太郎氏によると、キリスト教は肉体と霊魂(ソウル)の二元論です。(私は、キリスト教では人間は「肉体(ボディ)」「精神(ソウル)」「魂(スピリット)」の三つで構成されると、どこかで読んだことがありますが)
「キリスト教的な人間理解の観念にあっては、死は単に肉体という道具の崩壊にすぎません」
死によって肉体が滅びても、霊魂は天国に行くので、もはや不要となった臓器を提供することに抵抗を感じない、ということでしょう。

では、自分の臓器を提供しようとする日本人が少ないのはなぜか。

「ひょっとしたら、十三世紀以後、怠けつづけた日本の仏教界のほうに問題があるのではないでしょうか」と司馬遼太郎氏は言います。

なぜかというと、仏教では無我が説かれます。
「〝我〟は絶対的に実在しているものではなく、〝縁起〟として(関係として)存在しているだけのものだ」

司馬遼太郎氏は中村元『仏教語大辞典』「無我」の項を引用します。
「我ならざること。我を有しないこと。われというとらわれを離れること。我でないものを我(アートマン)とみなしてはならないという主張。われという観念、わがものという観念を排除する考え方。アートマンは存在しないこと。霊魂は存在しないこと」

自分の体は自分の所有物ではない、我執を離れよと仏教では説かれているのだから、臓器を他の人のために役立ててもいいようなものですが、日本ではそういうことにはならないのは、無我という仏教の中心思想をきちんと説いてこなかったからだということでしょう。

司馬遼太郎氏はさらに日本仏教を批判します。
「寺領をもたない寺が、葬式をはじめたのも、室町時代からだと思います。そんな室町時代でも、さすがに僧位僧階を持った正規の僧は葬式をつとめたりはしませんでしたが、私度僧、聖とよばれる人々が、死者をとむらっていくばくかの金を得るようになりました。(略)
さらには、仏教としては信じがたいことに、寺がその境内に墓地をもつようになったのです。
寺が、死霊(仏教にはこの概念はありません)たちの管理をするようになったのです。驚天動地の変化でありました」
たしかに、インドや中国では僧侶が葬儀を執り行うことはなかったし、骨にこだわるのは執着ですし、ましてや追善供養という考えは仏教には本来ありません。
「いずれにしても僧や寺が食べるために教義を変えた、というのはよろしくありません」

このようにきちんと説明しながら、はっきりと意見を述べるところが司馬遼太郎氏の人気の秘訣でしょう。
でも、司馬遼太郎氏の意見には納得できない点もあります。

コメント (42)
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