三日坊主日記

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高瀬毅『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』2

2012年03月19日 | 日記

高瀬毅『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』によると、浦上天主堂の廃墟が取り壊されることになったのは、長崎市長と長崎教区司教へのアメリカからの働きかけが大きな要因である。

1954年3月の第五福竜丸事件などがあり、アメリカは「教会ルート」と「市長ルート」ではたらきかけた。
「田川市長の「心がわり」のきっかけとなった姉妹都市提携と市長の渡米、山口司教による米国での天主堂再建の資金集めが、ほぼ同時期に行われた」

1954年7月、浦上天主堂再建委員会が発足する。

総工費は6千万円で、信徒たちの寄付は3千万円が限度。
山口司教は1955年5月~1956年2月までアメリカに渡り、再建資金を集めた。

一方、1955年、長崎市にはアメリカのセントポール市との姉妹都市提携の申し入れが持ち込まれた。
田川市長は1956年8月から9月までの一カ月あまり、アメリカ全土を訪問する。
訪米以降、田川市長の考えが「保存」から「撤去」へと転換した。
「廃墟の存置に反対したことはなかった田川市長が、残すことに消極的な姿勢を見せ始めた」

1958年2月17日の市議会で、田川市長の答弁。
「今日、長崎市の観光資源として役立っておることはまちがいないと思いますが、これが平和を守るために不可欠のものであるかどうかという点になってまいりますと、簡単に決め得べきものではないと、私はこう思っております。(略)浦上天主堂の残骸が原爆の悲惨を物語る資料として十分なりや否や、こういう点に考えを持ってまいりますときに、私は率直に申し上げます。原爆の悲惨を物語る資料としては適切にあらずと。平和を守るために存置する必要はないと。これが私の考え方でございます」

「この資料をもってしては原爆の悲惨を証明すべき資料には絶対ならない、のみならず、平和を守るために必要不可欠の品物ではないというこういう観点に立って、将来といえども多額の市費を投じてこれを残すという考えは持っておりません」

「あの原爆直後の長崎、広島をそのままの姿において戻して残してこそ、その目的は達する。ただ単なる一片のものを残してみて、これならば自分たちが爆撃を受けた残骸よりもまだ小さいじゃないかという逆にそういった考えを持つ。そこで原爆の悲惨事というものはあの物をもって私は証明し得ないではないかと、そういう考えをもっているわけでございます」

「核兵器をもっているソ連、アメリカ、イギリス等は屡々(しばしば)発表いたしております通り、これなくして平和は守れないんだという言い分なので、(略)立論の相異というものが出て来ると、こういうふうに私は考えておるのでありまして、これを残すことによって平和が守れるか守れないか、この点に立って考えてみますと、私はこれがあるために平和を守るための唯一不可欠のものではない」
なんなんだこれは、という市長の答弁である。

翌18日、「旧浦上天主堂の原爆資料保存に関する決議案」が全員一致で可決。
浦上司教区の山口司教に市議会議長が決議文を手渡す。
2月26日、田川市長は山口司教と会見し、天主堂の廃墟を現在地に残すことを要請した。
さらに3月8日、市議会議長と浦上天主堂原爆資料保存委員会正副委員長とが山口司教を尋ねて、廃墟の保存を要請した。
しかし、3月14日、廃墟の取り壊しが始まった。
ずいぶんと急な話である。

高瀬毅氏はアメリカの新聞などをも調べている。
田川市長は記者に対して「広島は原爆投下を宣伝のために利用しようとしている」と発言しているそうだ。
「田川市長は、原爆投下記念日の文章の中で広島を批判し、原爆によって焼かれてしまった女性は、広島の二十五人の女性のように整形手術のために渡米する要請などはしないだろう、と語っている」
記事を書いた記者の受け止め方でニュアンスは違ってくるので、田川市長がこのとおりに話したかどうかはわからないが

「それでも、田川市長が広島と長崎の戦後復興の仕方に明らかな違いがあると認識し、それを米国にアピールしようとしていることは否めなかった」

田川市長の心変わりは圧力ではなく、懐柔されたという感触を持つと高瀬毅氏は言う。
「旅費、滞在費などはおそらく米国から出されたのではないか、というのが私の推測だ」

もっと驚くのが、セントポール市の新聞に載った山口司教の言葉。
「再建プロジェクトを進め、残りの爆破の傷跡を消し去ることを望んでいる」
そして、こんなことも言っている。
「カトリック教徒は、この試練を、戦争を終わらせるための殉死とみなし、罪に対しての神の最後の鎮静だと考える」

「私たちは、広島で日本人が受けた犠牲は神の前では十分ではなかったのだと感じている」
教会の再建資金がほしかったにしても、あまりにもひどい。

同じようなことを永井隆医師は『長崎の鐘』(昭和24年刊)に書いている。

「米軍の飛行士は浦上を狙つたのではなく、神の摂理によつて爆弾がこの地にもち来たらされたものと解釈されないこともありますまい。(略)これまで幾度も終戦の機会はあつたし、全滅した都市も少なくありませんでしたが、それは犠牲としてふさわしくなかつたから神は未だこれを善しと容れ給わなかつたのでありましよう。然るに浦上が屠られた瞬間始めて神はこれを受け納め給い、人間の詫びをきき、忽ち天皇陛下に天啓を垂れ終戦の聖断を下させ給うたのであります」
このトンデモ発言、書名を知らなければアヤシイ宗教の教祖が書いたのかと思ってしまう。
『長崎の鐘』はベストセラーになり、映画化され、主題歌もヒットしたのだが、おかしいと思う人はいなかったのが不思議である。

GHQでは、『長崎の鐘』出版をめぐって容認派と反対派に意見が分かれた。
「容認派が評価したのは、原爆を神の摂理と書いている点である。「原爆で死んだ浦上の信者たちは神に選ばれた羔(こひつじ)と書き、原爆を神の摂理ということで地震や噴火といった自然災害のように描き、政治問題にしていない」というのだった」

「『長崎の鐘』の出版を仲介した式場三郎氏が検閲当局との交渉の中で、「著者は実に柔和な態度で、原子爆弾の投下は正当であったことを認めている」という手紙を出している」(高橋眞司『続・長崎にあって哲学する』)
原爆投下を肯定する永井隆の本はアメリカにとってはなはだ都合がよかったわけである。

コメント (4)
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