三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

平雅行『歴史のなかに見る親鸞』3

2011年08月04日 | 仏教

 恵信尼との結婚と別居
「恵信尼文書」の「き」(直接体験)と「けり」(間接体験)の用法から、恵信尼は直接見聞した事実を手紙で述べている、だから恵信尼が親鸞と初めて会ったのは親鸞が法然のもとに通っていた時期だ、という説が出された。
しごくもっともだと思うのだが、平雅行氏はこの説
を認めない。
「恵信尼の直接体験と解さなくても、文章理解は可能である。恵信尼の説明が途中から、親鸞の直接話法に変わっているところに、混乱の原因がある」
したがって、越後に流されたのは恵信尼の実家とされる三善氏のコネということもあり得ない。(平雅行氏は恵信尼の実家は三善氏ではないという立場)

また、親鸞が越後に流罪になる一ヵ月前に伯父の宗業が越後権介に補任されているので、宗業の影響があるという説がある。
「もっとも越後権介など、実質的な権限はありませんので、これを過大視して考えることには慎重でなければなりません」
「彼の要請で親鸞の配流先を越後にしたということは考えにくい。殿上人にもなっていない宗業に、そのような政治力があろうはずがありません」
ということで、親鸞はたまたま越後に流されたらしい。

親鸞は藤井善信という名前に改めた。
その理由。
「一般に中世では、地方の下級官僚を任命する際、藤原氏は藤井に、源氏は原に、橘氏は立花に、平氏は平群に書き改めるのが通例でした」

流罪生活はどのようなものか。
中世では、流罪人の身柄を在庁官人(県庁の役人)や御家人に預けて、監視・扶持させていた。
親鸞は地元の在庁官人に預けられたはずだと平雅行氏は言う。
「囚人がどういう扱いを受けるかは、預かり人の自由裁量の部分がかなり大きかったようです」
「全般的にさほど厳しい管理下に置かれていたわけではない、と言えるでしょう」

恵信尼は三善為教(為則)の娘と考えられているが、平雅行氏はまたまた定説を否定する。
三善為教(為則)は京都の官人であり、越後介の官職を金を払って手に入れただけで、越後に土着していたわけではない。
一方、恵信尼や子どもたちは親鸞と別れた後は越後で暮らしている。
恵信尼の実家の基盤は越後にあったために、子どもたちと越後で暮らすようになった。
もしも三善為教(為則)の娘であれば、京都で生活したはずである。
京都に住む覚信尼に何名かの下人を譲っており、越後に住む子どもたちもいるので、恵信尼が所有していた下人は相当な数にのぼる。
平雅行氏は「恵信尼は越後の在庁官人の一族であった可能性が高い」と言う。

「恵信尼文書」から、恵信尼は教養豊かな女性なので、京都の貴族の娘だ、と想定されている。
これについても、在庁官人は「政務を担当するには文筆能力が必要ですので、家族もそれなりの教養があったはずです」
北条政子も在庁官人の娘であり、高い教養を持っていた。
「恵信尼は越後の在庁官人の娘であったと推測してよいと思います。親鸞と恵信尼が結ばれたのは、越後での流罪中のことです」
親鸞は預かり人の娘と結婚した可能性が高い、というのが平雅行説である。

松尾剛次『親鸞再考』には、親鸞は赦免後、一度、越後から京都に戻り、それから関東に移ったとある。
なるほどと思ったのだが、『歴史のなかに見る親鸞』によると、赦免されても京都に戻る人ばかりではないそうだ。
讃岐に流された道範という僧は、京都に向かおうとするが、体調を崩したこともあって、高野山に戻っている。

では、関東から京都に親鸞は戻ったが、恵信尼や子どもたちはどうしたか。
親鸞と家族は一緒に京都に帰り、しばらくは家族そろって暮らしていた、というのが平雅行説。
恵信尼が覚信尼の子どもと会ったことが「恵信尼文書」に書かれているのがその証拠。

では、恵信尼はなぜ親鸞と別れて越後に移ったのか。
東国門弟は親鸞や家族の面倒をみてくれたが、子どもたちの家族の世話までは頼めない。
東国門弟に頼ることなく、子どもたちが生活できるようにしないといけない。
恵信尼が越後で子どもたちと暮らしたのは、
「恵信尼の実家に頼らないと、生活の目途が立たなかったからでしょう」
親鸞が京都に残ったのは、覚信尼が宮仕えのためで、
「そのためには、親鸞が伯父一族に支援を頼み込まないといけません」
「子どもたちのことを考えれば、夫婦は越後と京都に別れるしかなかったのでしょう」
ふーむ。

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