人間と他の動物との違いは、人間は自分が生まれる前にもこの世があり、自分は死んでもこの世は続くことを知っていることだ、と何かで読んだことがある。
「死を理解するということ、それは概念化するということです」
死は事実ではない、死は概念であると、新谷尚紀『お葬式』に何やら難しいことがまず書いてあるが、読んでいくと、なるほどねということでした。
犬や猫は仲間が死んだことがわからない。
なぜかというと、仲間の死体の処理をしないから。
ニホンザルも死がわからないらしく、仲間が死んでも死体を放置する。
「死体を処理するとか、死体に対する特別な考え方、あるいは行動をとることは猿にはありません」
死んだということを知ること、死によって何らかの感情をかき立てられるのは人間だけらしい。
それと猿は、何かを指さして、他の猿が指さしたほうを見るということがないそうだ。
私の子どもが3歳ぐらいのころ、「あれを見てごらん」と指さしたら、子どもは私の指先を見てた。
まさに指月のたとえでした。
「死は、人類がその進化の過程で発見した概念である」
子どもは何歳から死(死んだ人とは会えないこととか)を理解するのか。
家族が死んで泣くのは小学校4年生ぐらいからじゃないかと思うが、どうなんでしょう。
では、人類は?
クロマニヨン人以降のある段階、3万7千年から3万5千年前に、人類は死を発見し、死体に対する対処が始まったそうだ。
葬送が行われ、墓が作られてきた原点である。
ネアンデルタール人は死者を悼む気持ちがあったという説もあるが、全面的には信用できないとも言われているそうだ。
死の発見は宗教の誕生でもある。
「死を発見したことによって何が起こったのか。それは生の発見でもありました。
つまり、死ぬということと生きるということとを対比的に考える。そういうホモ・サピエンスになっていく。すると、死ということの恐怖、そして生きているということの喜び、それが死んだ後どうなるかという不安、この世とあの世、他界観念のめばえです。それから霊魂観念、生きている命というものを考える。つまり、死の発見は宗教の誕生を意味したのです」
エリアーデだったと思うが、死者が夢に現れることや、シャーマンのビジョンから、死んでもおしまいではないと考えられたそうだ。
「死後の世界はこうなのだとか、人間は死んだらこうなる、などと語る人物が出現してくるのです」
「講談師見てきたような嘘を言い」という人がいるのは今も変わりないけれども。