君が代起立条例だが、そんなにムキになって座っていなくてもと、正直なところ思う。
それに私は小心者だから、君が代斉唱とか国旗掲揚で全員が起立しているのに、自分だけ座っているようなことはとてもじゃないができない。
まあ、私はどうしようもない音痴だから、斉唱はしないけど。
とはいえ、「国旗国歌を否定するなら、公務員を辞めればいい」「職務命令に関しての思想信条の自由は認められない」と、上から押さえつけるのはイヤである。
それに、個人の意見ならともかくとして、憲法で認められている思想信条の自由を守らないと、公務員である府知事が公言していいものだろうか。
原理主義の特徴の一つは杓子定規ということで、教員が君が代の斉唱の時に起立、斉唱しなかったら免職になるとしたら、これは君が代原理主義だと思う。
原理主義は、それを信じる人にとっての正論(主観的真実)だから、反論は難しい。
しかし、正論が正しいとは限らない。
酒の席で「正論」をぶつ人がいて、酒がまずくなることがあるじゃないですか。
あれです。
一杯飲んで、ということなら仕方ないとあきらめるけど、行政がそれをするとなったら恐い。
有川浩『図書館戦争』に「正論は正しい。だが正論を武器にする奴は正しくない。お前が使っているのはどっちだ?」、そして「正しかったらなに言ってもいいわけじゃない」などの名言がある。
『図書館戦争』で、子どもの健全な成長のためには有害図書は見せるべきではない、中学校の図書室にある有害図書を廃棄すべきだと、親の団体(団体名がもっともらしいのだが、手元に本がないので……)が中学校に圧力をかけてくる。
検閲されると、逆に興味を持つものですけどね。
何が有害図書なのか、それを誰が決めるのかということになるし、そもそも有害図書と非行との関連性はあるのかということもある。
そういう「正論」には頭の回転の悪い私ではとてもじゃないけど反論できないが、有川浩氏は中学生に意見を言わせて、「正論」の間違いを指摘している。
ところが、東京都青少年育成条が改正され、不健全な漫画・アニメが規制されることになったわけで、フィクションが現実を後追いすることになった。
不審者情報の配信ということも「正論」の一つで、犯罪をなくそうという趣旨は結構なことだが、かえって不安感を煽り立てることになるのではないかと思う。
そんなことを言うと、子どもが犯罪に巻き込まれてもいいのかと問いつめられ、返答に窮するのだが。
愛国心も「正論」の一つなので、お前は国を愛する気持ちがないのか、と突っ込まれたら困ってしまう。
「職務命令に組織の一員である教員が従うという当然のことをやらなければならない」と橋下徹府知事は話している。
検閲や取り締まりなどで管理統制を強化して、秩序を維持しようとすれば、逆に失われるものが生じる。
たとえば、信頼である。
疑心暗鬼、不安、恐れ、人を見たら泥棒と思え。
それは教育的とは言えないのではないか。
「正論」とは息がつまるものなのである。
アンチユートピアについて一席ぶってもいいが、長くなるので省略。
公立学校で君が代、国歌のことでもめるようになったのは、1985年に高石邦男初等中等教育局長が都道府県の教育委員会教育長に入学式、卒業式で国旗国歌実施調査の通達を出し、1989年には高石邦男事務次官が学習指導要領を根拠に国旗の掲揚と君が代の斉唱を指導したという経緯があるらしい。
その高石邦男氏はリクルートから株をもらったことが発覚すると、「妻が株をもらった。私は知らない」と発言して失笑を買った。
それでも衆議院選に出馬したのだが、あえなく落選、有罪が確定した。
愛国心を悪党が隠れ蓑にするというのはこういうことだと思う。
ゲーリングはニュルンベルグ裁判でこう言っている。
「国民は常に指導者の言いなりになるように仕向けられます。われわれは他国から攻撃されかかっているのだと危機を煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。そして国を更なる危機に曝す。このやり方はどんな国でも有効です」
「正論」には気をつけましょう。