三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

広瀬健一「学生の皆さまへ」4 他人のカルマ

2009年06月30日 | 問題のある考え

自分が作るカルマの心配だけしたらいいというわけではない。
他人のカルマが移ってくることもあるのだから油断できない。
広瀬健一氏は他人のカルマの影響を受ける体験をしている。
「一般社会が苦界への転生に至らせることに関しては、出家後初めて外出したときに、以前に経験のないほど激しくカルマが移ってくるのを感じて、危機感を覚えました。出家者に対して外部との接触を厳しく制限するなど、教団が外部の悪影響を警戒していたことが暗示になったのだと思います。また、テレビ・コマーシャルを視聴したところ、その音楽のイメージが頭の中でぐるぐると繰り返されるようになり、集中力が削がれる経験がありました」
「当時、私は街中を歩いたり、会話をするなどして非信徒の方と接したりすると、苦界に転生するカルマが移ってくるのを感じました」

たしかに、子供が学校で悪さをすれば、親が学校に呼び出されて怒られるように、ある人のカルマ(行い)が他の人に影響を及ぼすことがある。
しかし、オウム真理教が言う他人のカルマがどうしたというのはそういうことではない。
たとえば新型インフルエンザのウイルスが感染するような感じである。
こういうカルマの考えはケガレと似ている。
カルマもケガレも具体的な実在だと考えられているのである。

ケガレは移る。
だから、忌中の張り紙を貼って人に用心してもらうわけだし、年賀の挨拶に行きませんと「喪中につき」という手紙をわざわざ送って知らせる。
神や先祖はケガレを嫌うから、ケガレが移ると災いがもたらされることがあるからである。
あるいは、世界救世教の信者が言っていたのだが、町を歩いていてなんだかぞっとすることがある、それはそこに地縛霊(不慮の死の場合は死んだ場所に霊魂がとどまるとされる)がいるからで、お祓いの呪文(?)を急いで唱えるんだそうだ。
カルマとケガレと地縛霊とは本来違うはずだけれど、地縛霊は他人に取りついて苦しめるので浄化しないといけないわけで、まあ似たようなもんかいなと思う。

広瀬杲先生は、善導当時の仏教界においてこういう主張がされていたという。
「浄土、すなわち仏国土の尊貴性を主張すれば、そこへ往生する衆生の位を高め、低位の存在の往生を認めることはできず、逆に低位の衆生の往生を許すならば、その浄土もまた低位の境界となる。それ故、最勝の浄土へ低位の衆生が往生できるという主張があるとすれば、それは理論的な矛盾である」(『大乗仏典中国・日本篇5』解説)
清浄なる土に汚れたものが入ると清浄さを保てない、つまり浄土は選ばれた人の世界だから、浄土は汚れたもの、劣ったものが排除される、とされていたわけである。

オウム真理教では、出家すると世俗的な関係を一切絶つことになる。
広瀬健一氏はこう書く。
「出家者は、教団施設内で共同生活をすることになります。家族とも絶縁の形になり、解脱するまでは、会うことも、連絡することも禁止でした。財産はすべて教団に布施し、私物として所有できるのは、許可されたもののみでした。飲食できるのは給与されるもののみで、通常、外食は禁止でした。本、新聞、テレビ、ラジオなど、教団外の一切の情報に接することも禁止でした。これらの戒は、苦界に転生する原因となる執着を切るためのものでした」
「出家者に対して外部との接触を厳しく制限するなど、教団が外部の悪影響を警戒していた」

他者のカルマ(悪業)によって汚染されてしまうことのないよう、世俗の人から遠ざからないといけないというオウム真理教の教団施設は、汚れたもの、劣ったものを排除しなければ清浄さが保てない浄土と同じ発想だと思う。
言うならば病気に感染した人との接触をいやがるようなもので、実際、アーレフの信者も入信していない人とのつき合いを嫌うそうだ。

コメント
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