三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

広瀬健一「学生の皆さまへ」3 カルマの法則

2009年06月18日 | 問題のある考え

カルマが実体化され、因果の道理が前世・現世・来世の三世思想と結びつくとカルマの法則となる。
カルマの法則とは、現在の境遇や出来事などは過去世の業の結果であるということ、そして次の生でどこに生まれるのかはカルマ(業・行為)によって決まるという考えである。
つまりは宿業とか前世の因縁ということである。

広瀬健一氏はカルマの法則をこのように説明する。
「煩悩と行為は、過去世のものも含め、情報として私たちの内部に蓄積しているとのことでした。この蓄積された情報が「カルマ(業)」でした。そして、「悪業に応じた世界に転生する」というように、自己のカルマが身の上に返ってくることを「カルマの法則」といい、これも重要な教義でした」

カルマの法則について麻原彰晃はこう説明している。
「先日、私の五才になる三女が、ある大師をつかまえて問いかけたことがあった。
「ある人が他の人に殴られるのはなぜ?」
「それは、その人が以前に他の人を殴ったことがあるからだよ。」
「じゃあ、一回も殴ったことのない人が殴られるのはなぜ?」
「もし、人を殴ったことがないのに殴られたとしたら、その人は前生で人を殴ったことがあって、そのカルマが残っていたんだね。」
たいへんな不幸に襲われたときでさえ、「すべて自分の過去のカルマによる」ということを理解できるかどうかは、修行の大きなポイントでもある。「カルマの法則」を完全に理解しきらない限り、苦からの解放、すなわち解脱はあり得ない」
(麻原彰晃『滅亡の日』)

どんな行為(カルマ)でも何らかの影響を及ぼすことは言うまでもない。
しかし、行為がカルマという実体となって残るとなると、これはおかしいと言わざるを得ない。
A・スマナサーラ師(スリランカの高僧)は
「善悪行為のエネルギーは簡単には消えません。ポテンシャル(潜在力・業)として蓄積されます。しかし業(カルマ)はエネルギーですから、悪いエネルギーと強い善いエネルギーで抑えることは可能なのです」(A・スマナサーラ『死後はどうなるの?』)
と言っているが、業=エネルギー(粒子みたいなものか)が実在するなら、業(カルマ)が物理的に存在することを証明できるはずだ。

そもそもカルマの法則は縁を無視している。
ある人が他の人に殴られた因はかつて人を殴ったということであり、その人が一回も殴ったことのないとしたら前生で人を殴ったからだ、という麻原彰晃のたとえは、因果関係をあまりにも単純化していると言わざるを得ない。
因が果を生ずるための縁が必要だし、縁は無数にある。
たとえば、種をまけば必ず花が咲くわけではない。
芽が出て花が咲くためには、水をやったり太陽の光に当たったりするという縁がなくてはいけないし、カラスが種をほじくらないという縁など、数え切れない縁が必要なのである。
誰かに殴られる縁も無数。
だから、因果関係を単純に説明する教えはあやしいと思ったら間違いない。

ところが、ロポン・ペマラ師(ブータンの高僧)も麻原彰晃と同じようなことを言う。
「病気には三つのタイプがあると言う。一つは、本当の病気で、これには医学的な治療がある。もう一つは、悪霊の祟りであり、これは占いと法要によって対処できる。最後は、過去世の業の結果であり、自分がいま体調が優れないのは、このタイプである。だから、薬も、法要も役にたたず、唯一の対処策は善業を積むことである。だから、自分は念仏を唱えているのである」(今枝由郎『ブータン仏教から見た日本仏教』)
信仰で病気が治るなんてクリスチャンサイエンスと変わらない。(クリスチャンサイエンスは前世のことは言わないが)
この部分だけを取りあげるなら、ブータン仏教よりも日本仏教のほうがましだと思う。
法然はこう言っている。
「いのるによりてやまひもやみ、いのちものぶる事あらば、たれかは一人としてやみしぬる人あらん」(神や仏に祈ったからといって、病気がなおり、命がのびるなら、病気で死んだりする人は一人もいなくなるはずであろう)(井上洋治『法然』)

カルマの法則なんて仏教じゃないと言いたいところだが、カルマの法則を肯定する宗派、教団は少なくないし、過去世の行いによって現在の境遇が決まるということは、浄土経典にも説かれている。
「経典中には、現世の私たちのあり方が過去世の行いによると述べている場合がある。すなわち、現実社会の身分・貧富、身心の障害や病気、災害や事故、性別や身体の特徴などを、その人個人の過去世の行いの結果によるものとするのである。このことは悪をつつしみ善につとめるという宗教的倫理を強調するための論理であって、どこまでも、現実の生き方を誡めて正しい未来を開くための教えとして受け止めねばならない。(略)
しかし、こういう表現が、経典の真意とは別に解釈され、そのために貴賎・浄穢というような差別意識が助長され、さらにまた一方ではそれぞれの時代の支配体制を正当化するとともに、また一方では被差別、不幸の責任をその人個人に転嫁してきた歴史がある。(略)
それは政治的につくりあげられた封建的身分差別までも、すべて個人の行いの報いであると説くことによって、社会的身分制度を正当化する役割を果たすものであった。しかもこのような現実社会を無批判に肯定してしまうような理解は、現実の差別をなくす取り組みを、因果の道理をわきまえないものだとして否定するとともに、またその取り組みを悪平等として非難する考えを生みだしたのである。
しかし、現実の幸、不幸の原因のすべてを個人の過去世の行いのせいにし、不幸をもたらしたさまざまな要因を正しく見とどけようとしないことは、むしろ縁起の道理にそむく見解である。歴史的社会的に作られた矛盾や差別によってもたらされた不幸の責任を、被害者や差別されている本人に転嫁し、その不幸をひきおこした本当の要因から目をそらせてしまうようなことがあってはならない」
(『浄土三部経―現代語版―』)
よその悪口はあまり言えないのでした。

コメント
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