三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

無罪の主張と反省の両立?

2009年04月22日 | 死刑

和歌山の毒物カレー事件はやっぱり上告棄却となり、死刑が確定する。
状況証拠だけで死刑になったわけで、「疑わしきは罰せず」という無罪推定の原則はどうなったんだろうか。

で、最高裁の判決文にこういう文章がある。
「しかるに、被告人は詐欺事件の一部を認めるものの、カレー毒物混入事件を含むその余の大半の事件については関与を全面的に否認して反省の態度をまったく示しておらず、カレー毒物混入事件の遺族や被害者らに対して慰謝の措置を一切講じていない」

否認事件だと、被告は反省をしていないと判決文は非難する。
でも、いつも思うことだが、これはどういう意味だろうか。
この判決文を書いた裁判官は、被告がもしも罪を認めて深く反省し、被害者への謝罪や賠償などをしたならば死刑を回避したのに、どうして反省してくれなかったんだろう、残念でした、とでも言いたいわけだろうか。
4人が死んでいる事件で有罪だったら、死刑以外は絶対にあり得ないのはわかっているのに。
無罪を主張している被告が「慰謝の措置」を講じたなら、罪を認めたと判断されてしまう。
そんなこと誰でもわかることだが、この裁判官は冤罪というものはこの世にはあり得ないと思っているのかもしれない。
逮捕されたということは有罪であり、否認することは反省していないことだ、と。
最高裁の裁判官が無罪推定の原則を知らないとは思いたくないけど。

無罪か死刑とではえらい極端な話である。
無実の人を死刑にする間違いと、死刑になるべき人を無罪にする間違い、どちらの間違いを選ぶか。
無実の人が罰せられてはいけない、人権を大切にしなくては、という選びが「疑わしきは被告人の利益に」という無罪推定の原則を生んだのだと思う。

冤罪の可能性があるから死刑には賛成できない、という意見の人は結構いる。
冤罪の人も被害者である。
自分が被害者になったらということは想像しやすい。
だから、冤罪だという主張は支持を得やすいと思う。

でも、無実ではない有実の事件だとそうはいかない。
裁判員制度の話を某氏たちとしていて、計画的に殺したという検察の主張に対し、被告はかっとなって思わず殺してしまったと言っているというような場合、素人の裁判員ではどちらが正しいか判断できない、ということを言ったら、某氏は「被害者にしたら同じことだ」と言う。
そういうことではなく裁判で量刑を決めるには云々、と説明したつもりだが、どうも理解してもらえず、被害者に対して冷たいと嫌われてしまった。
某氏のような人が裁判員になったら困ると思う。

実際、死刑囚の再審請求は冤罪の主張ばかりではなく、殺人ではなく傷害致死だとか、心神喪失だとか、直接手を下してはいないとか、そういうことを訴えている人もいる。
もしそれらの訴えが本当なら、死刑というのはかわいそうだと思う。
だけど、100%無罪であってもなかなか再審開始とはならないのに、まして有実の場合は再審が認められることはまずないそうだ。
それでも和歌山の毒物カレー事件は世論が変わるかもしれないし、ひょっとしてひょっとしたら再審が認められる可能性がないとは言えない。
そうなったら死刑判決を出した裁判官はどういう「慰謝の措置」を講じるのだろうか。

コメント (39)
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