三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

「婦人」抗論

2009年04月16日 | 日記

真宗大谷派が出している「あいあう」に船橋邦子氏のこんな文章が載っている。
「国連が1975年を「国際女性年」と決めたとき、日本政府は「国際婦人年」と呼んだ。しかし「婦人」は「箒を持つ人」、性別役割を表すとして公的文書では使われなくなり、ほぼ死語になった。性別に分離されていた職域も、その垣根が取り壊されつつあり、「保母」さんは「保育士」、「看護婦」さんは「看護師」、「スチュワーデス」という女性名詞は「客室乗務員」となった。「父兄会」とは言わなくなったし、メディアから「未亡人」ということばも消えた。とはいっても、「配偶者」を「夫」や「妻」と呼ぶ人は確実に増えてはいるものの「主人」や「奥さん」も決してなくなってはいない」
死語となったはずの「婦人」が「婦人生活社」や「婦人公論」ではまだ使われているが、会社名や雑誌名は公的文書じゃないからOKということか。

船橋氏は「「婦人」は「箒を持つ人」、性別役割を表す」と言ってるが、「婦」を白川静『字通』で調べると、
「箒は掃除の具ではなく、これにチョウ酒(香り酒)をそそいで宗廟の内を清めるための「玉ははき」であり、一家の主婦としてそのことにあたるものを婦という」とある。
真宗風に言うと、お内仏のお給仕をする人が婦人だということになる。
婦人会を女性会に変更しているところが多いが、婦人という言葉のいわれを考えると、仏教婦人会はまさにぴったいの名称である。
女性会というのは媚びているように思う。

「主人」や「奥さん」という言葉、問題があるのはわかるが、だからといって「主人」や「奥さん」が使えないとなると、人の夫や妻をどう呼べばいいのだろうか。
たとえば「あるお宅の奥さんがこんなことを言ってました」とは言えなくなるけど、「あるお宅では妻がこんなことを言ってました」じゃ意味が通じない。

では、「奥さん」ではなくて「妻」にしたらいいかというと、「妻」というのは差別語だ、「刺身のつま」というじゃないか、と某氏が言ってた。
で、辞書を調べると、刺身のつまとは「刺身を引き立てるために添えられる野菜や海藻など。転じて、添えもの程度の軽い役割しか担っていないもの」という意味。
「妻」が夫の添え物程度の軽い役割しか担っていないという意味なら、たしかにまずい。
でも、「つま」を調べると、
「つま(夫/妻)《「端(つま)」の意》
1 夫婦や恋人が、互いに相手を呼ぶ称」

とあって、「夫」も同じく添え物ということになってしまう。

船橋邦子氏はさらに、
「なぜ、結婚相手を「配偶者」と呼ぶようになったのだろう。「配偶者」の「配偶」とは、広辞苑によると「配偶子、生殖作用に際し、合体や接合にあずかる、ここの生殖細胞の総称」とある。ということは、結婚の相手である「配偶者」とは、生殖、子どもを産むための性(セックス)の相手ということになる」
と書いていて、「配偶者」という言葉を使うのもまずいらしい。
となると、結婚の相手をどう呼べばいいのだろうか。
「パートナー」と言う人が結構いるが、問題がある日本語は英語にしましょうという発想は、平仮名(めくらなど)はだめだけど漢字(盲人や晴眼者など)ならOKということと同じで、舶来信仰みたいなものではないかと思う。
そもそも英語だって語源を調べると差別的な単語があるだろうし。

真宗の法名は男は釈○○、女は釈尼○○だが、本願寺派は女性差別だというので、女も釈○○に変えている。

「釈」+「尼」が差別だったら、「彼」+「女」の「彼女」はどうなのか。
本願寺出版社の出版物は三人称について「彼」に統一、もしくは「彼男」「彼女」としているのだろうか。

アメリカで暮らしていた人の話だと、日本語に比べて英語は言葉の数が少ない、日本語は一つの事柄についてたくさんの単語、いろんな表現があるそうだ。
使えない日本語が増えてしまうと、言葉や感情の微妙な違いが表現できなくなる。
言葉の数が少ないと、世界が単調になると思う。

コメント
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