三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

信田さよ子『依存症』

2008年10月02日 | 

アルコール依存症者はほどほどに飲むということができない。
飲酒のコントロールを失った人は、酒をやめるか、死ぬしか道はない。

信田さよ子『依存症』によると、信田さよ子氏のカウンセリングセンターを訪れる人はそこまでひどくはなく、社会生活をおくれているが、飲酒のために家族との関係がうまくいかなくなったり、量が多くなってきたという人がほとんどで、入院歴のある人はいない。

その人たちには断酒を正面にはうちださず、量や回数を減らしていくと、だんだんと飲まなくなってくるそうだ。

私が断酒を強制せず、相手の希望に沿った援助を続けるとアルコールをやめてしまうという不思議な現象は何を意味しているのだろうか。
一方で断酒をしなくてはと意気ごんでいたのに、飲んでしまったことで果てしない罪悪感を感じ立ち直れなくなってしまう人もいる。


この違いを解くキーワードは「自責」だと信田さよ子氏は言う。

禁止は他者からはもちろん、自分で自分に対する禁止もある。「いけないと思うけどやってしまう」ほうが、許容された行動よりも快感は強いのである。(略)
つまり自分を責めることは次の嗜癖行動の快をより高めていくのだ。周囲が本人を「意志が弱い」と責めることは、嗜癖行動を起こすエネルギーを補給しているようなものなのだ。
したがって我々の援助は相手の自責感を増すことはない。その人を責めたりしないのだ。その人が困って援助を求めたこと、そのことを何より素晴らしいこととして肯定するのだ。そこで語られることを決して責めず否定せず、すべて肯定してかかわる。


これを読んで思い出したのが、薬物依存症者の話である。
人を傷つけたことで自分を責め、罪悪感を持つようになった。
自助グループの仲間にその話をしたら、「あなたがクスリを使ってやったことに、あなたの責任はほとんどない。それはクスリがさせたことだ」と言われた。
「仮にあなたが人を殺したとしても、それは法律的な罪はあるけど、でもあなたの責任ではない。あなたの責任はこれから薬物依存を治療していくことです。自分を責めることはとにかくやめなさい」という言葉によって、初めて許される気持ちを持ったと言う。

それまで、人をクスリに誘い込んで傷つけてきたことで、ずっと自分を責めてきたけど、そのことをきちっと見るんじゃなく、自分を責めることをクスリを使う理由づけにしていた。
罪の意識を捨てないかぎりクスリを使い続けることになり、そしてクスリを使うことでさらに自分を責めてしまう、そういう悪循環を指摘されたわけである。

この話を聞いて、阿闍世の回心を考えた。
父王を殺したことで阿闍世は罪の意識にさいなまれ、身体中に瘡ができて苦しむ。
大臣たちはいろんな慰め(仕方なかったとか、みんな同じことをしてるとか)を言うが、阿闍世はそれを受け入れることができない。
ところが耆婆は、苦しむのは当然だ、恥じることがないのは畜生だと言う。
阿闍世は耆婆の勧めに従って釈尊に会いに行く。
薬物依存症者に「あなたには責任がない」と言うのと、阿闍世に「罪がある」と言うのとでは全く逆である。

身近な人を亡くした方が死者に対して罪の意識を持つことは珍しくない(老衰でも)。
罪の意識に苦しんでいる人にどう対処すればいいのか。

依存症者は、このように周囲からのコントロール(叱責、罵倒、非難、説教)が撤去され、その行動そのものが容認されることで、その行動が止まるということなのだ。(略)
本人の生きることそのものに組み込まれた嗜癖行動が止まるのは、それこそ生きることの転換によって初めて可能なのだ。そしてそのような生の転換のドラマをコントロールせず肯定して見守ることが、周囲の人間にとって唯一の許された行動なのかもしれない。

自分を責めるのも一種の嗜癖行動かもしれない。

善知識(善い友)は畢竟軟語、畢竟呵責、軟語呵責を使うそうだが、たぶん相手に届く言葉があるんだと思う。
耆婆が厳しいことを言ったから、じゃ、自分も、というわけにはいかない。
難しいもんです。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする