三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

管賀江留郎『戦前の少年犯罪』 2

2008年08月21日 | 厳罰化

管賀江留郎『戦前の少年犯罪』を読むと、今まで持っていた戦前のイメージが間違いだったのかと思えてくる。
たとえば貧困。
昔は貧しさが原因の犯罪が多かったと言われているが、どうやら違うらしい。
「昭和13年以降の少年犯罪で貧しさゆえのものなどほとんどありません。逆に分不相応に高額なこづかいを持つようになったためによからぬ遊びを覚えてしまって、金が足りなくなって強盗を働くとかそんなのばかりです。
少年が親よりも稼いで一家の家計を支えるようになったので、親もなかなか意見できないのが不良が増えた原因だと、当時の警察も分析しています」


それと、働かないと食べていけなかったから、仕事もせずにぶらぶらしている人はあまりいないと思ってたのだが、ニートが多いのも驚き。

前に引用した9歳が6歳を射殺した事件でもそうだが、戦前の親は子どもに甘い。
子どもといっても小学生に甘いばかりではない。
昭和15年、中野好夫は東大の入学試験に親が付き添うことを批判しているし、東京帝国大学で40年ぶりに行われた昭和16年の入学式では、新入生2000人に対して2000人の父兄が同伴した。
大学の入試や入学式に親同伴というのは最近の風潮ではないわけだ。
陸軍の入営式にすら新兵の父兄が付き添っていたというのだから信じられない。
昔だって親離れ、子離れができていないのである。

それでも、旧制高校や帝大の学生は今の大学生なんかよりもよく勉強し、教養があったのではないかと思ってしまうが、それも間違い。
「帝国大学の定員は旧制高校卒業者より多かったので、どこかの帝大には確実に入れます」
旧制高校に入るまでは大変だが、あとはラクチンだったわけである。

親は甘いし、金があれば、学生はどうするか。
「昔の学生のいたずらや犯罪は、今と違って無邪気だったというようなことを本気で信じてる方もいるのですが、街中で刃物を振り回して何百人で乱闘しようが、道路をふさいでバスや電車を長時間留めようが、商店の看板を壊して民家の窓ガラスを何百枚割ろうが、まわりの大人たちが甘やかして若い者の無邪気ないたずらということにしてくれていただけなんです」
そういえば、尾崎士郎『人生劇場』を読むと、旧制中学の生徒が酒を飲み、女を買っている。

毎年、成人式で騒ぐ新成人がニュースになるが、これに対して著者はこう言う。
「とりあえず決められた場所で年に一回秩序正しく騒ぐ成人式の若者にいちいち怒るなんて余裕のないことはやめたほうがいいんでないかと、わたくしは思いますです。あんなことにまなじりを決して頭から湯気を立てている大人ほどみっともないもんはありません。その醜い表情には、若者に寛大だった日本の良き伝統を踏みにじる教養のなさがくっきりと浮き出ています」
以前は「若気の至り」という言葉があったが、死語になった、ということは社会がそれだけ非寛容になったわけである。

それともう一つ、戦前の警察は取り調べはいい加減だし、否認するとすぐに拷問する、裁判は適当だから冤罪が多いし、刑罰も重い、と思っていたが、これも違うらしい。

昭和13年の幼女誘拐殺人事件では、「少年が何人か捕まって一度は犯行を自供したりしたんですが、入念な捜査の結果やっぱり違ったと釈放しています」

昭和11年、嫁(19)が姑に劇薬を飲ませて逮捕され、夫もネコイラズで死亡させたことも自供した事件、裁判では一転して無罪を主張、証言を何度も変えている。
「裁判所を十重二十重にかこんだ法廷ファンは百枚の傍聴券争奪にガラス窓を破っても狂奔。その整理に午前九時開廷が午後三時まで開廷不能になった程。それこそ超殺人的人気を○○は一身に集中した」
裁判マニアが昔もいたのかと、またまたびっくり。
でも、今はここまでの騒ぎを起こすマニアはいないと思う。
で、この嫁には無期が求刑され、一審は殺人が証拠不十分で無罪、尊属殺未遂だけで懲役3年6ヵ月判決。二審では尊属殺未遂も証拠不十分で、結局まったくの無罪となって確定した。

警察の取り調べは、「ひとつひとつ見ていくと結構慎重で、とくに少年には非常に気を遣っていて、少なくとも戦後すぐの警察の取り調べなんかよりは遙かに立派なもので、それどころか現在の警察より公正でまっとうなんではないかとさえ思えてきます」
裁判にしても、「ともかく疑わしきは罰せずという原則がきっちり貫かれた非常に公正な裁判であったと云えます」
現在の裁判より公正だったのかもしれない。

刑罰についても決して厳罰ばかりではない。
昭和7年、精米業者(18)が祖母の家に押し入り、3人死亡、1人重傷、そうして自殺未遂という事件では無期懲役。
昭和11年、雇人(19)が主人一家を襲ったあとに自殺未遂という事件、6人死亡、1人重傷なのだが、心神喪失として無期懲役。
どちらも死刑が回避されているのだから、現在よりも寛刑だったのかもしれない。

著者はあとがきで、
「虚構と現実を混同してしまっている人たちが、新聞やテレビニュースを通じて過去についてまったくの妄想を語り、それを信じた人がまた妄想を増幅するというヴァーチャルな円環ができあがって、無意味にぐるぐると回転しています」
それは今も同じ、というかひどくなっている。
事件が起きるたびにマスコミは大騒ぎして、あることないこと書き立てる。
子どもが事件を起こしたり、学校で事件が起きると、校長以下は過剰反応する。
そして「最近は……」という話になるわけである。

「私は少年犯罪などにまったく興味はなく、ただ情報の流れ方に興味がありまして、ちょっと調べればわかるようなことをなぜ、人間は誤った情報をやすやすと信じてしまうのか。それもひとりやふたりのうっかりさんだけではなく、情報の専門家と自称しているようなとっても威張っていたりする人も含めてほとんどすべての人がそうだったりするのはどうしてなのかをを探ろうとしています」

人は信じたいことだけを信じるという言葉があるが、まさにその通り。
たとえば戦前の教育制度を美化し、戦後教育を否定する人は結構いるが、そういう人たちは『戦前の少年犯罪』に書かれてあることは気に入らないだろう。
でも、人間自体はそんなに変わるものではないから、戦前も現在も人間のすることは似たり寄ったりだろうと思う。



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