三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

「死に神」に被害者団体抗議=「侮辱的、感情逆なで」

2008年06月28日 | 死刑

「死に神」に被害者団体抗議=「侮辱的、感情逆なで」
 13人の死刑を執行した鳩山邦夫法相を「死に神」と表現した朝日新聞の記事について、「全国犯罪被害者の会(あすの会)」は25日、東京・霞が関の司法記者クラブで記者会見し、「死刑執行を望む犯罪被害者遺族も死に神ということになる。侮辱的で感情を逆なでされた」とする抗議文を、同日付で朝日新聞に送ったことを明らかにした。
 抗議文で同会は「法律に従って執行を命じたにすぎない法相を非難することは、法治国家を否定することになる」と批判。記事の意図などについて同社に回答を求めた。
(時事通信6月25日) 

死刑の執行を願うことと、死刑執行にハンコを押すこととは全く違うことであり、あすの会はそれをごっちゃにしているように思う。
被害者遺族が死刑の執行を望んだからといって、すぐに執行されるわけではないだろう。

そもそも
死刑とは国家が敵を殺すという制度である。
被害者感情とか世論は二の次、三の次である。

人の命は地球よりも重たいとか、どんな命であっても大切だから人を殺してはいけないということは誰もが知っている。
しかし、すべての法則に例外があるように、人の命の重さにも例外があって、敵の命は奪ってもいいらしい。
つまり、戦争において敵を殺すことは当たり前のことだし、英雄になることもある。
敵というのは一応敵兵ということなのだが、無差別爆撃がなされるようになってからかもしれないが、敵国の一般人を空襲で無差別に殺戮することもOKである。
さらには、原爆投下によって米軍捕虜も殺されたが、敵国に居住している自国民も殺されても仕方ない。
というふうに、殺してもかまわない人の選択を国に委ねるならば、殺してもかまわない敵はどんどこどんと増えていく。

敵は戦争の相手国だけではないし、外国にだけいるわけではない。
日本の刑法で定められている死刑になる犯罪は殺人罪以外にも、内乱罪、外患誘致罪(外国と通謀して日本国に対し武力を行使させた者)、外患援助罪(日本国に対して外国から武力の行使があったときに、これに加担して、その軍務に服し、その他これに軍事上の利益を与えた者)などがある。
彼らは自国民ではあっても、国家の敵だから死刑、というわけである。

では、殺人を犯した者はどうなのかというと、これもまた国家の敵なのである。
トマス・アクィナス「国家の平和が紊されないために、国家の為政者が凶悪な人間に死刑を執行することは正当であり、罪ではない」
ジャン=ジャック・ルソー「社会的権利を攻撃する悪人は、すべてその大罪によって祖国への反逆者、裏切者となる。彼は、祖国の法律を侵すことによって、祖国の一員であることをやめ、ついに祖国に対して戦いをいどむことにさえなる。二つのうち一つが滅びなければならない。そこで、市民としてよりもむしろ敵として、罪人を殺すのである」
という文章が森達也『死刑』に引用されていて、なるほど、社会の敵は国家の敵なわけである。
つまりは死刑とは国家の敵を殺すという制度なのである。

殺してもいい人はどういう人かを国が決めるというのは他にもあって、たとえば脳死である。
臓器を再利用したいから、国が脳死を人間の死と定めた。
胎児だってこれから先、どう利用されるかわからない。

SFによくあるテーマだが、人口が増えすぎて食糧が足りなくなり、30歳とか60歳になると死ななくてはならない法律ができる、といった小説がある。
この場合だと、60歳になっても生きようという人間は国の敵というわけだ。
どんな人間の命も大切だ、殺していい命などない、という基本原則に例外を認めるべきではない。

        
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コメント (4)
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