三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

若松孝二『実録・連合赤軍』

2008年06月07日 | 厳罰化

あさま山荘事件よりもリンチ事件のほうが私にはショックだった。
どうして次々と仲間をリンチして殺したのか、何冊か本を読み、そして『実録・連合赤軍』を見てもやはりわからない。

リンチのシーンは凄惨に描かれているが、植垣康博や坂口弘の手記を読むと実際はこの程度のものではない。
なぜあんなことができたのか。
彼らがアジトを移動する際にバスに乗った時、ひどい悪臭のために運転手や乗客に気づかれ、あとで通報されたというが、臭いにマヒしてくさく感じなくなるように、暴力をふるうことや他者の痛みにマヒしただけではない気がする。

そして、ささいなことで総括を求め、追い詰めていく残酷さ。
突然やり玉にあがり、「総括しろ」と責められ、自分はこう思いますと自己批判しても、「それじゃ総括になっていない」と否定され、「どう総括すればいいんですか」と尋ねると、「自分で考えなきゃ意味がない」と怒鳴られる。
どう言おうと、何をしようと許されることはない。
殴られ、縛られ、柱にくくりつけられ、食事を与えられず、寒さの中、結局は死んでしまう。
これは魔女裁判の論理に似ている。

魔女裁判では、「お前は魔女だろう」と問い詰められ、「魔女じゃない」と否定すれば、「嘘をついている」と決めつけられて拷問にかけられる。
拷問に耐えきれずに「魔女です」と認めれば、「やはりそうだったのか」というので火あぶりに。
あくまでも否定すると、「これだけの拷問に耐えるのは魔女の証拠だ」というので、さらに厳しい拷問を受ける。
以下、同じことの繰り返し。

光市事件の被告は反省していないと言われる。
面会はしないし、謝罪の手紙を読まないのだったら、反省したかどうかわからない。
つまりは何を言っても無駄で、私は魔女ですと認めて胸を張って死刑台に登れば、そこで反省しているということになるという魔女裁判の論理である。

じゃ、
どうすることが反省なのか。
寝屋川市小学校少子殺傷事件の加害者(広汎性発達障害の17歳)の母親は、
「言葉で言えるものではないのですが、ご家族の幸福を一瞬にして奪ってしまい、償うという言葉では済まないと思います。一度謝罪の手紙を書かせてもらいましたが、その後は何もしていません。何をしたらよいか、自分でも分かりません」(佐藤幹夫『裁かれた罪 裁けなかった「こころ」』)
と言っているそうだが、下手なことをしてかえって傷つけてしまわないだろうかと危惧して、何をしたらいいかわからないという気持ちになるのはわかる。
ところが、ある掲示板に「どうしたらいいのか」と聞くこと自体が反省していない証拠だと書いている人がいて、これまた魔女裁判みたいなものである。

「反省していない」と決めつけられ、「私はこのように反省しています」と答えたり、謝罪の手紙を書けば、「死刑になりたくないから反省しているふりをしてるんだ」と見なされる。
「じゃ、どうすれば反省することになるのか」と尋ねたら、「やっぱり反省していない」と言われる。

村瀬学同志社女子大教授が、
「テレビの中で、乱暴な発言をするタレントの中に、再犯を犯す者を例にあげて、「少年院で本当に更生なんてできるのか」と発言する者がいる。こういう「不信感」は、多分にその人自身の内面の不信に対応している。自分自身が反省することがないものだから、人もきっと「本当の反省」なんかしないだろうと考えている」
と、『少年犯罪厳罰化 私はこう考える』にきついことを書いている。

森恒夫は一度逃亡したあとに復帰している。
だからこそ、森恒夫は「自身の内面の不信」があり、人は裏切るものなんだと思っていて、それで総括を求めながら、「きっと「本当の反省」なんかしない」と決めつけていたのかもしれない。
そして、逃げたことがあるという弱みがあるものだから、余計に他者に攻撃的になり、死ぬまで許すことができなかったのかもしれない。

リンチ事件の怖さは、そうした状況に置かれたら自分も同じことをするんじゃないかという、自分自身の闇を見せられるからということがあると思う。

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コメント (28)
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