三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

怒りという快感

2005年07月23日 | 日記

暑さのせいか、年のせいか、もともと短気なせいか、思わずどなってしまうことがある。
どなった後味はすこぶる悪い。
しかし、考えるより先にどなってしまう。

ドストエフスキー『カラマゾフの兄弟』で、カラマゾフ家の父親(一家の暴君)にゾシマ長老がこう言う場面がある。

自分を嘘であざむく人は、誰よりも腹を立てやすい。なにぶん腹を立てるのは、時によると大そう気持ちのよいものですからな。しかも当人は、誰も自分を侮辱した者がおらぬことを、逆に自分のほうから自分に対する侮辱を考え出して、色どりを添えるために嘘をついたことを承知している。自分で勝手に誇張をして、他人の言葉尻をとらえ、針小棒大の大騒ぎをしていることを承知している。―自分でそれを承知していながら、やはり真っ先に腹を立て、しかもいい気持ちになるまで、大きな満足を味わうまで腹を立てて、その結果とうとう本当の敵意を抱くようにさえなるのですじゃ。


子供が小さい時、がみがみ怒り、子供が怯えた表情をした時、正直なところ私は快感というか、自分の力を感じた。
児童虐待、妻への暴力、あるいは拷問、虐殺などなど、そうしたことが平気でできるようになる原因の一つは、人を自分の思い通りにできることへの快感があるんじゃないだろうか。
つまり、力のある者が無力な者に対して力(権力)をふるい、無力な者は何もできず、怯え、卑屈になる、そのことに喜びを感じるわけである。
しかし、子供が大きくなると、怒っても反発されるばかりである。
怒りはかえって無力感を感じさせる。

某氏から聞いた話だが、コンビニの客の中で、一杯飲んだサラリーマンはたちが悪いそうだ。
特に金曜。
中年のおじさんの文句は、自分が買いたい商品がないというのが多いそうで、たとえば「アイスクリームがほしい」と言う。
「アイスクリームでもハーゲンダッツのメロンがない。なんでメロンがないんじゃ。わしはメロンが食いたいんじゃ。イチゴはいらん。メロンは今売れとるはずじゃのに、なんでお前んとこはないんか」というところから始まる。
コンビニ側は「申し訳ございません」と、とにかく頭は下げっぱなしで、「お客様、全くその通りです」という姿勢をとる。
そうして、30分、40分と、くどくど文句を言い続ける。

犯罪の加害者宅には嫌がらせの電話や手紙が殺到するそうだ。
『カナリア』というオウム真理教をモデルにした映画では、信者の実家に落書きや投石がされていた、というシーンがあった。
開高健が、権力の快感に比べたら性の快感なんて大したことはない、というようなことを言っていた。
子供やコンビニの店員や犯罪加害者の家族に権力をふるって、いい気持ちになるというのも寂しい話ではあるが、それが人間の本質なのかもしれない。

コメント (2)
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