私は話をすることがあると、話した後はいつも自己嫌悪に陥る。
話がとにかく下手なもんでねえ。
理屈っぽい話をダラダラと単調に話されたら、聞くほうとしては苦痛だろうと思うわけです。
トシ・カザマというアメリカ在住の写真家がいて、この人は10代の死刑囚の写真を撮っている。
カザマさんはスライドを見ながら、この死刑囚がどういう人で、どういうことをして、どういう会話をして、ということを話されるわけです。
重たい話だが、引きつけられる。
そして、絶妙の間。
話の間にある沈黙は、死刑囚との会見を思い出し、彼らの抱えているものの重さに耐え難くなって絶句したのか、と思わせる。
その沈黙の時間があるから、ただでさえ重たい話がズシーンと響いてくる。
ところがですね、この沈黙はそういうことじゃないと、某氏から聞いた。
カザマさんは町を歩いていて、突然暴行を受け、数日間意識がない状態だったという、そんなことがあって、その障害が残っているために、話をすると身体がしんどくなるので、続けて話すことができないということなんだそうだ。
死刑囚のことを思って話すのがつらくなるとか、あるいは計算したものではないわけです。
手品の種明かしをされたような感じだが、しかしだからといってカザマさんの話の素晴らしさに変わりはない。
私が真似をして間を置いたら、何を話すか忘れてしまったと勘違いされるだけのような気がする。