三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

ミソとクソの違い

2005年03月08日 | 問題のある考え

増谷文雄『仏教概論』に、

仏教の歴史は異端の歴史


キリスト教の歴史は異端の吟味の歴史であり、異端の追放の歴史

とある。

異端はかえって新しい仏教のいのちの泉の役割を果たしている。


このことは仏教の歴史を少し学ぶならばすぐに理解できる。
上座部と大衆部との分裂、大乗の勃興、そして中国や日本などで習俗を取り入れて、仏教は新しく発展している。
だからといって、クソもミソも一緒くたにして、何もかも仏教として認めていいものかとは思う。
どの宗教も結局は同じことを言っているんですね、と言う人がいるけど、賛成できない。

袴谷憲昭氏は『法然と明恵』で、遠藤周作『深い河』の次の文章を引用して批判する。

さまざまな宗教があるが、それらはみな同一の地点に集まり通ずる様々な道である。同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ異なった道をたどろうとかまわないではないか。

どの道も山頂へ到る道だ、そして山頂からの眺めは同じだ、というわけだ。

しかし、私の歩く道は一つしかない。
そこには選びがあると思う。
私としては霊の実体化、体験(特に神秘主義)の絶対化は仏教とは認めたくない。
この二点はニューエイジの特徴でもある。
だから、阿含宗、真如苑、梅原猛の日本教、幸福の科学、オウム真理教などは仏教じゃないと私は思う。
しかし、これらを切り捨てておしまいというのでは、独善になってしまう。
どこがどのように問題なのか、既成教団にも同じ問題はないかを考えていかなければならないと思う。

コメント (4)
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