松本史朗氏や袴谷憲昭氏は『歎異抄』は造悪無碍を説いていると主張する。
これにはいささか驚いた。
『真宗新辞典』で造悪無碍を調べると、「どんなに悪を造っても往生の障りにならないという主張」とある。
この説明では、なぜ造悪無碍が異義なのかがわからない。
『歎異抄』の「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに」ということも造悪無碍の異義になってしまう。
竹中智秀『宗祖親鸞聖人に遇う』をたまたま読んでたら、造悪無碍のことが書かれていたので、それをまとめてみます。
阿弥陀仏の本願はすべての人を救いたいという願いだから、善人悪人を選ばない。
ところが、本願は善悪を選ばない、阿弥陀如来は悪人をこそ助けてくださるんだ、だから悪いことをしてもかまわないんだ、と本願に甘える人が出てきた。……本願ぼこり
さらには、悪を造ることを恐れるようでは本願に遇っていない証拠だ、積極的に悪を造っていかなくてはいけないんだ、と悪を造る人が現れた。……造悪無碍
我々は業縁によっては何をしでかすかわからない存在である。
何をするかわからない、だからそれでいいんだ、ということではなく、そのことを悲しみ、どういう者であろうと決して排除しないのが、如来の本願である。
その本願に出遇った者は、罪の深さを思い知らされ、恥じていく。
阿弥陀如来に悲しまれている罪の身であることを思い知らされ、懺悔していく。
悪を造ることを恐れず、何をしてもいいと、ことさら悪いことをするのなら、それは自己正当化である。
そういう間違えた本願の受け止め方が、本願ぼこりとか造悪無碍という異義である。
ということで、『歎異抄』は本願ぼこりや造悪無碍のように悪の肯定、すなわち自己正当化を説いているわけではもちろんないわけです。
(追記)
竹中智秀先生が本願ぼこり、造悪無碍についてどういう説明をされているか、誤解を招くような書き方をしたので、以下『宗祖親鸞聖人に遇う』から引用します。
竹中智秀先生は『宗祖親鸞聖人に遇う』の中で、本願を疑うという問題を取りあげ、専修賢善と本願ぼこり、造悪無碍とは同じ問題だと指摘しています。
もっと極端になると造悪無碍です。悪人のための本願だから、悪を造っても碍りにならない。だから本願に助けられるためには、どんな悪でも造っていこうということです。本願に助けられるために、むしろ今まで悪を恐れておった者が、悪を恐れているような者は本願を疑っているんだと。だから積極的に悪を造って、むしろ助けられたことにしておこうといって殊更、わざと悪を造って、それで助けられたんだということを自分でも思い込んで、それで安心しようとするんです。それが造悪無碍の異義です。
如来の本願に遇って、善悪を選ばない本願ということが信じられないときは専修賢善の異義になるか、本願ぼこり、造悪無碍の異義になるか、そのどちらかになるのです。これが本願を疑っているということの証拠です。