増谷文雄『仏教概論』に、
仏教の歴史は異端の歴史
キリスト教の歴史は異端の吟味の歴史であり、異端の追放の歴史
とある。
異端はかえって新しい仏教のいのちの泉の役割を果たしている。
このことは仏教の歴史を少し学ぶならばすぐに理解できる。
上座部と大衆部との分裂、大乗の勃興、そして中国や日本などで習俗を取り入れて、仏教は新しく発展している。
だからといって、クソもミソも一緒くたにして、何もかも仏教として認めていいものかとは思う。
どの宗教も結局は同じことを言っているんですね、と言う人がいるけど、賛成できない。
袴谷憲昭氏は『法然と明恵』で、遠藤周作『深い河』の次の文章を引用して批判する。
さまざまな宗教があるが、それらはみな同一の地点に集まり通ずる様々な道である。同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ異なった道をたどろうとかまわないではないか。
どの道も山頂へ到る道だ、そして山頂からの眺めは同じだ、というわけだ。
しかし、私の歩く道は一つしかない。
そこには選びがあると思う。
私としては霊の実体化、体験(特に神秘主義)の絶対化は仏教とは認めたくない。
この二点はニューエイジの特徴でもある。
だから、阿含宗、真如苑、梅原猛の日本教、幸福の科学、オウム真理教などは仏教じゃないと私は思う。
しかし、これらを切り捨てておしまいというのでは、独善になってしまう。
どこがどのように問題なのか、既成教団にも同じ問題はないかを考えていかなければならないと思う。
以前、田村芳朗先生が鎌倉新仏教の祖師方を評して、論じておられましたが、それを、今回のログに合わせて申し上げれば「あれかこれか」と「あれもこれも」の間にあるということになるようです。
要するに差別相としての現実と、平等相としての悟りとの間で揺れたということになるのでしょうけれども。
あと、拙僧は「どの道も悟りへ行く」とは思えません。これは思想的に言えることですが、必ず固有の理論には、分岐が訪れます。そして、分岐の仕方によっては、先が無くなることも有ると思うのです。したがって、思想には射程があります。
もっとも、ここで分岐を自在に選択できるほど甘くはないものですから、難しいところでもありますが。
しかし、おっしゃるようにすべての登山口から山頂に到ることができるわけではありません。
行き止まりの道もあれば、違うところに行ってしまう道もあるでしょう。
どの道を選ぶかという選びが大切となってくるわけです。
先人がこの道を歩んだ、だから私もこの道を歩む、という選びが仏教の基本じゃないかと思います。
その道を浅田正作さんは「骨道」と言われています。少し引用します。
この骨道という言葉は宮城先生からから教えていただいた言葉です。これは『法顕伝』という中国の僧侶の伝記を読まれて出遇われた言葉であると承っております。
私たちに先立って念仏道を歩んでいかれたたくさんの先達の足跡を、この骨道という言葉が表現しとるように思われるんです。
『法顕伝』という本に「上に飛鳥なく、下に走獣なし」と書いてあります。つまり、行けども行けども砂漠で砂ばかり。空を飛ぶ鳥も、地上を走る獣もいない。いくら見まわしても何の生き物の影も見えん。そういう所でわずかに太陽を見て方角を知り、「唯、死人の枯骨を以って、標識と為すのみ」。目印になるものはなく、ただ死人の古びた骨を道しるべとするだけだ。
この言葉で宮城先生は日頃いだいておられた骨道という言葉に出遇われたと話してくださったんです。
http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/kotudou.htm
宗教に一番重要なことは、憑依や遊離だと考えていると、梅原猛はいってますが、うーんという感じですね。そういう体験をもたないような宗教家はつまらないと。
読んでみると、どうしても真宗と霊魂を強引に繋げたい感じがしますね。
これに中沢新一が加わればゴールデントリオですね。(笑)
>宗教に一番重要なことは、憑依や遊離だと考えていると、梅原猛はいってます
つまり、神秘主義こそが宗教だと言いたいわけなんでしょう。
もしそうなら、宗教は選ばれた少数者のためにだけあるものになってしまいます。
そんな宗教など宗教の名に値しません。