三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

旗手啓介『告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実』

2018年08月20日 | 戦争

1992年、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)に、自衛隊と75名の警察官が派遣されました。
文民警察官としてPKOに従事していた岡山県警の高田晴行さん(33歳)は、1993年5月4日に「正体不明の武装勢力」(おそらくポル・ポト派)に襲撃され、殺害されます。
旗手啓介『告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実』はNHKスペシャルで放送されたものを基に、加筆して書籍化した本です。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54154

1991年10月、パリ和平協定が締結し、内戦を続けてきた四派が和平協定に調印し、20年以上続いたカンボジア内戦が終結した。
1992年3月、UNTACが活動を開始。
1992年6月、PKO協力法案が成立。
ポル・ポト派は武装解除を拒否、ポル・ポト派抜きで武装解除を進めることをUNTACは表明。
1992年7月、政府調査団がカンボジアに向かう。
1992年9月、警察庁が先遣隊を派遣し、情報収集を行う。

各国の文民警察隊を束ねるオランダ人の本部長は、治安情勢について説明し、最も危険な地域の一つがタイ国境に近いアンピルだ、と語った。
「アンピルは無法地帯というべき地域です。毎日のように殺人事件が起こっていますが、捜査はされておらず、訴追されることもなければ、罰も与えられてもいません」
高田晴行さんたちはアンピルに派遣されています。

1992年10月、75名の隊員は成田を出発した。
勤務は9か月。

自衛隊にはメディアは関心を持ったが、文民警察はあまり注目されていない。
自衛隊の活動地域であるタケオはカンボジアでも安全な地域の一つだった。
タケオの自衛隊宿営地は、プレハブの宿舎の中にレクリエーション施設があり、自動販売機で日本製のビールが購入でき、自前の風呂も作られるという、参加各国の中でも最も恵まれた宿営地という評判だった。

その一方、文民警察官は任務地さえも決まっていなかった。
日本の文民警察官は、32カ国の中で31番目に現地入りをしているから、配置場所のいいところは各国にとられていた。

文民警察官の実際の任務は選挙のために村や町に赴き、住民たちに選挙とは何かを教え、有権者登録用の顔写真を撮影するなどの業務を支援する役割だった。

1992年10月27日、アンピル班10名の任務がスタートした。
アンピルはタイとの国境に近く、プノンペン政府の力が及ばない場所だった。
カンボジア全体に大量の地雷が埋設されており、アンピルのあたりもポル・ポト派が地雷を埋めていた。

ポル・ポト派は停戦違反をし、各地で他派や国連を攻撃した。
内戦状態のため、自動小銃を一般市民も持ち歩き、簡単に人が殺され、死体がゴロゴロしている。
目の前で起きていることは戦争そのものだった。

元隊員の日記やビデオには、「戦闘が起こると防空壕に身を潜めるしかなかった」「市街戦そのものの戦場」とある。
ところが、パリ和平協定によって停戦合意が成立し、それを前提としてPKO協力法が可決され、自衛隊や警察から派遣されている。

日本政府としては「紛争地域に行くわけではない」という前提だった。
文民警察官は特別な装備や銃を携行しておらず、丸腰の状態で、隊員のほとんどは海外勤務の経験がなく、事前準備もなかった。

班長だった川野邊寛さんはこう語ります。
「PKO協力法の根底にあるのが、紛争地域に行くのではない、和平条項が締結されて安全なところに行くんだと。だから自衛隊も緊急避難の際に使用する機関銃は一丁でいいじゃないかと、二丁はダメだと、そういう議論になっていたわけですよね。文民警察はあくまで文民なんだ、平和なところへ行くんだ、(略)そういう根底からの雰囲気ですよね」

1993年1月13日、カンボジア北西部のアンクロン村にある日本人文民警察官の宿舎などが武装集団に襲撃された。
文民警察官は防空壕を作り、砲撃があると、防空壕へ逃げ込んだ。
1993年4月8日、国連ボランティアの中田厚仁さんが殺害された。

そして、1993年5月4日、ポル・ポト派の襲撃により、高田晴行さんが殺害、日本人2人が重傷、2人が軽傷。
停戦の合意が崩れていないことにするために、襲撃は正体不明の武装勢力によるものとされた。

スウェーデンやオランダではカンボジアPKOに関する検証がなされているのに、日本は検証を行なっていないそうです。
高田晴行さんが殺害された責任は曖昧なままなのでしょう。

2016年7月11日、菅義偉官房長官は南スーダンの情勢について「PKO法における武力紛争発生とは考えておらず、参加5原則が崩れたとは考えていない」と述べています。
ところが、廃棄していたと言っていた日報には「戦車や迫撃砲を使用した激しい戦闘が確認される等、緊張は継続」などと書かれてあることが判明しました。
https://mainichi.jp/articles/20170208/k00/00m/010/154000c
カンボジアPKOから何も学ばないまま20年以上が経ち、政府は相変わらずウソをついてごますという点では少しも変わっていません。

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本願寺の戦争協力

2018年01月31日 | 戦争

某氏より「非戦平和を願う真宗門徒の会会報 5号」をいただきました。
西本願寺の方が何人か寄稿してます。
本願寺の戦争協力について知らないことがたくさんあるもんだと、あらためて思いました。

藤本信隆「門信徒との課題の共有」

本願寺教団の戦争協力はアジア太平洋戦争からではない。
西南戦争に始まり、日清戦争を経て、日露戦争でほぼ形ができ上がった。
根拠となる教学は西本願寺門主の大谷光尊(1850~1903)の「後の世は 弥陀の教えに まかせつゝ いのちをやすく 君にさゝげよ」という真俗二諦だった。
死んだらのことは阿弥陀仏にまかせ、現世は国家の方針に従うという生き方である。

松橋哲成「浄土真宗と教育勅語」

真俗二諦とは、近代の本願寺教団が天皇絶対主義体制に順応するために生み出した論理である。
浄土往生のための信心と、日常生活のための世俗倫理を二分化させ、この世はその場の状況に合わせるという生き方であり、俗諦の具体的内容こそが教育勅語だった。
教育勅語に対する方針は、天皇陛下の意を一日中、心にとどめ、これを永遠に伝えることと規定した。(1891年)

大谷派の暁烏敏は「お勅語を飛行機で運んでいこう。お勅語を軍艦で運んでいこう。大砲でお勅語を打ち込もう。重爆でお勅語をひろめよう」(『臣民道を行く』)と書いている。


藤本信隆「門信徒との課題の共有」

大谷光瑞(1876~1948)は「出征軍人の門徒に告ぐ」という小冊子と懐中名号を約44万人の将兵に贈呈した。

小冊子の内容は、平和を求めるためという戦争の正当性、命の無常と意義ある戦死、阿弥陀の救いがあるという安心、天皇の心の理解と報恩の実践などである。

正義の戦争では殺生戒を犯したことにはならない。
戦闘中に恐怖心が起きても、阿弥陀仏の慈悲を思い出して念仏を称えたら、戦死しても極楽往生できる。
戦死は天皇のために命を捧げ、靖国神社に祀られる名誉であり、身に余ることである。

旅順攻撃の時、称名念仏しながら突撃することがあり、石川、富山、福井の連隊で構成された第九師団の中には、多くの戦死者を出して「念仏大隊」と賞賛された大隊があった。


松林英水「戦時中の仏教界のスタンス」

日本の仏教界では、各教団が組織を挙げて報国運動をおこなった。
しかし、中国の仏教界では、全国の仏教徒に抗日救国を訴え、抗日運動を展開した。

中心となった圓瑛法師は1931年、9.18事件(満州事変)の時に日本の仏教界へ「日本仏教界への書」というアピールを出し、戦争停止の呼びかけを行なった。


満州事変での呼びかけは次のような内容だった。

わが釈迦牟尼仏は慈悲平等をもって世を救うことを願われ、われら仏教徒は共にこの仏の素懐を体し、仏の教えを宣揚すべきであります。日本は仏教を信奉する国であり、国際的に慈悲平等の精神を実践し、東アジアに平和をもたらし、世界平和をさらに進めるよう尽力すべきであります。しかしながら、日本の軍隊が侵略政策をもって中国領土を占領し、中国人を惨殺するとはどういうことでありましょうか。これは日本政府の主張でもなく、日本人の意志でもありますまい。軍を掌握し、私利を図り、国家の名誉を顧みない少数の野心家たちの犠牲になったのであります。皆様が出広大舌相して共に無畏の精神を奮って全国民を喚醒せしむるよう努力し、日本政府に陳情書を提出して、中国における軍閥の暴行をやめさせ、国連の事案を遵守し、即日撤退されるよう切に望むものであります。


1937年の7.7事件(蘆溝橋事件)の時にも、圓瑛法師は「日本仏教徒に告げる」を発表している。

これに対して日本の明和会(仏教各派の代表者や有識者によって組織されていた)が「全支那仏教徒に誨(おし)ふ」という反論の文書を出し、このたびの戦争を「道の戦」であるとし、「真に人道正義国権擁護の為に億兆一心の生命威力を発揮するに至った」ものであると唱えた。

そして、「東亜永遠の平和を確立せむが為に仏教の大慈悲発して摂受となり又折伏となる。この已むに已むを得ざるの大悲折伏一殺多生はこれ大乗仏教の厳粛に容認する処である」と断じている。
さらには「皇国日本」の行う戦争を仏教の名において支持した。

太虚法師の日本仏教界への呼びかけは日本の敗戦まで計9回に及んでいる。

満州事変の時の呼びかけには、台湾・朝鮮・日本の仏教徒が速やかに連合し、日本の軍閥・政客の非法な行動を制止させるよう訴えた。

蘆溝橋事件の後に出した「全日本仏教徒に告げる」では、日本は軍事行動を停止すべきであり、日本の仏教徒は慈悲の心と智慧の眼を開いて自らを救い、人を救うべきであると訴えている。

これに対して、日本仏教連合会は、今日の情勢は中国が日本に恨みや憎しみをいだいたためにもたらされたものであり、太虚法師こそ迷蒙の人々を覚醒せしめ、抗日の心理を対日提携の心理に変えてゆくべきであると返答をしている。

仏教を学び、教えに従って修行をしていても、こんな体たらくとは。
仏道の実践は至難の業ということでしょうか。

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真俗二諦と戦争協力

2018年01月26日 | 戦争

浄土真宗には真俗二諦という考えがあります。
WikiDharmaの説明です。

仏法を真諦、王法を俗諦とし、広くいえば成仏道を真諦、世俗生活を俗諦とよび、この両者の関係について別体説にたって関係を論じたり、真諦より流出する俗諦として説いたりしてきた。

http://urx.blue/IekU

中島岳志『親鸞と日本主義』に、真俗二諦についてこのように書かれてあります。

王法(天皇への絶対的帰依)が仏法(浄土真宗の信仰)と相反するとき、仏法に立って王法を否定すると、権力から弾圧を受けることになるので、真宗教団は日常の世俗レベルで王法を受け入れることで、仏法を守ってきた。
教団は国体の論理を俗諦(王法)として受け入れたが、真諦(仏法)を俗諦である国体より上位に置くことは、天皇の大御心よりも崇敬すべき存在を認めることになる。
文部省は真俗二諦論を問題視し、是正を求めた。
そこで、1941年2月13日、大谷派は真宗教学懇談会を開き、戦時体制にいかに対応すべきか、教学のあり方についての討議を行なった。

前にも書きましたが、大谷派の著名な先生方がトホホすぎるの発言をしています。

http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/6d4a2f7d267ca715f51b011a9fb9b108

座長の挨拶でこんなことを言ってます。

政府も近来宗門の教義に対してその内容を検討し、国体の本義と国策に矛盾するものはこれからどしどし廃して聖戦に邁進しようとする意図があるのであります。だから吾宗門に於ても来る四月には新宗憲発布にあたり教義を新解釈して高度国防国家に資せんと致して居ります。

つまり、つまり時代に合わせて経典の解釈や教学の内容を変更しようということです。

真俗二諦に関係する先生方の発言をご紹介します。

曽我量深「死ぬときはみな仏になるのだ。国家のために死んだ人なら神となるのだ。神になるなら仏にもなれる。弥陀の本願と天皇の本願と一致してゐる」

竹中茂丸「どうしても宗門の上で阿弥陀と天皇と一緒にしなければならぬのか、それでなければ真宗は成り立たぬのか、別でもよいか、はつきり云つて欲しい」


金子大栄「阿弥陀の本願そのまま神の本願なり。(略)仏法は神の云ふことを仏が云つたと見てよい。(略)仏の御国が神の御国となることは間違ひない。(略)浄土の念仏がそのまま神の国への奉仕である」


曽我量深「教行信証の総序こそは教育勅語に対する仏教徒の領解である」


長谷得静「西派の人が文部省に行つたとき俗諦に就いての質問があつて、真諦即ち安心より流れるものが俗諦門であると説明したが、それならば二つ並べて書かなくてもよいのではないか(略)、といはれた。それで西派では真俗二諦を削除したといふ」


暁烏敏「今日のやうな時に王法を俗諦とすれば問題がある。仏法の教が大事か天皇の教が大事か、山﨑闇斎の話のやうに孔孟が日本をせめよせる話の通りで、今日では仏教に同様の問題が起つてゐる」


暁烏敏「皇法は大御心で、皇法のなかに仏道と臣道とがある。皇法は絶対でそのなかから仏法と臣道がある」

皇法とは王法のことです。

暁烏敏「職域奉公は臣道であるから、その意味では仏道即臣道である。皇道の中に臣民道と仏道とがあるといふが、仏道の中に臣道もあるでせう」


大須賀秀道「皇道を本とすべきか、真宗精神を本とすべきか(略)。皇道精神と真宗精神と一致で天皇に向へば皇道となり、仏に向へば真宗精神となることになれば簡単である」


津田賢「皇道精神と真宗精神の問題が出る。今は皇道精神でいかねばならぬ」


津田賢「吾々は指令あれば死力を尽してやる覚悟がある。宗門は単なる私的団体でなく、死を尽して国家に奉公する団体である」


木津無庵「金光教本部では、文部省との相違は私の方では元々丑寅の金神であつたが文部省に届けるとき天地金ノ神としたが、天地の金神は神社名簿にないからといふことでその結果月の大神、日の大御神、金の大神としたのであるといふ。教祖の御承知のない神が祭神となつてゐる」


木津無庵「天理教の祭神も最近宗教局の警告で、改めて目下教義の改造中である」


河崎顕了「真俗二諦は余り狭く説かれてゐたと思ふ。教育勅語を説く教へでなければならぬ」


木津無庵「石山合戦のとき、此の戦ひに参加するものは浄土往生すると証如上人がいはれたと云ふが、今日それが必要である。皆が安心して爆弾のもとに死ぬ覚悟を与へねばならぬ。(略)爆弾が落ちても安心できる。それは浄土往生が出来るとの信念である。(略)あやまれるものを正しくするのが聖戦である。それが仏行だ。されば此の戦ひに従事するものは菩薩行なり、此の菩薩行に参加するものが浄土往生してすぐ還相回向の働きをするものと思ふ」


金子大栄「仏教とか真宗とかの立場を捨てると、それは怪しからぬことと思ふが、元々仏教は立場を持たぬことと思ふ。(略)十年前は私も立場をもつてゐたため、皆さんに御迷惑をかけました」

10年前に迷惑をかけたというのは、1925年に『浄土の観念』の内容が異安心とされ、1928年に大谷大学教授を辞任したことだと思います。

金光教は、文部省が許可しなかったので、教祖の知らない神を祭神としたり、天理教は教義を変更しようとしたとは驚きです。

大谷派だって、さすがに本尊を変えることはしてませんが、似たり寄ったり。
どうしてこんなことになったのでしょうか。

東晋の時代(4世紀)、沙門不敬王者論といって、桓玄が沙門に帝王への拝礼を強要したのに対して、廬山慧遠は沙門は帝王に拝礼しなくてもよいと説きました。

慧遠のような僧侶がいないということかもしれません。

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テロと死刑

2018年01月09日 | 戦争

去年、ジッロ・ポンテコルヴォ『アルジェの戦い』(1966年)を見ました。

1956年から1957年にかけての、アルジェリア民族解放戦線(FLN)の独立闘争とフランスの弾圧をドキュメンタリータッチで描いた映画です。
警察や軍隊とFLNとの市街戦、テロに巻き込まれる一般市民がリアルに描かれています。

映画の背景を滋野辰彦氏はこのように説明しています。

第二次世界大戦が終結してアルジェリア独立運動が始まると、フランスは軍隊を介入し、アルジェリア人4万人が殺されて、反乱は鎮圧された。
1954年にカスバで暴動が起き、ヨーロッパにまでテロが拡大し、1957年にフランス軍が侵攻した。

『アルジェの戦い』は1967年キネマ旬報ベストテンで、301点のダントツの1位でした。

37人の選者のうち、1位にした人が15人、2位にした人が9人、3位にした人が3人、選外が2人(読者(女)を含む)です。
2位の『欲望』が181点、3位の『戦争は終った』が180点ですから、圧倒的に支持されたわけです。

品田雄吉氏は『キネマ旬報ベストテン』に、「アルジェ独立をめぐるすさまじい内戦を描いた内容が、学園紛争の時代にアピールしたといえるだろう」と書いています。
しかし、現在の視点で見れば、アルジェリア民族解放戦線のしていることは一般市民を狙った無差別テロです。

たとえば、チャドルを来た女性たちがレストランに置いた時限爆弾が爆破し、子供を含む多くの市民が殺傷されます。

テロに対する警察の厳しい取り締まりや拷問もやむを得ないのではと思うほどです。
滋野辰彦氏によると、当時、フランス共産党も機関誌に「爆破者を鎮圧すべし」と書いているそうです。

FLNのテロリストたちはカスバに隠れ、カスバから出てはテロを行い、またカスバに戻る。

フランス軍はFLNの隠れ家を急襲し、カスバに爆弾を仕掛ける。
双方が報復を繰り返し、憎悪が拡大する。
ドゴールがアルジェリアの独立を認めようとして、アルジェリア独立阻止する組織OASに何度も暗殺されそうになる。
どうすればよかったのか、まさに悲劇です。

FLNやフランスのマチュー中佐の言い分はどちらももっともですが、しかしテロや武力による弾圧を美化すべきではありません、

永山則夫裁判の控訴審での裁判官だった櫛渕理氏は、三島由紀夫の切腹事件で起訴された盾の会会員3人の裁判での裁判長を務めています。

堀川惠子『死刑の基準』に櫛渕理氏のこんな発言が引用されています。

どうも日本人は異常なことをやる人に、拍手喝采する傾向が見えるようですなあ。ぼくはこれが日本人の大きな欠点だと思うんですよ。異常なことに情緒的に肩入れするのは悪い癖ですよ。(略)
明治維新のときもそうです。志士と称する法律的には殺人犯が革命をした結果、『勝てば官軍』でいっさいが許されてしまった。もし、その考えを推し進めていくと、人間対人間が文字通り血みどろな闘争をする時代へもどってしまう。人間が長い間、築いてきた文化はどこへ行ったといいたいですね。近代的な法治国家において、クーデターは許されません、絶対にね。(「文藝春秋」1972年7月号)

ちなみに、三島由紀夫は浅沼稲次郎を刺殺した山口二矢をほめていました。

香山リカ『「悩み」の正体』に、

死刑を国家が行使する暴力と考えれば、国家の暴力に対して国民は寛容になっている。いや、むしろ国家の暴力を待望している。

とあります。
「死刑」を「戦争」に置き換えてもいい。

アレハンドロ・モンテベルデ『リトルボーイ』では、父が志願して戦争に行くが、日本軍の捕虜になります。

父のために少年が念力を太平洋のかなたに送りつづけてたら、広島に原爆が落ちて、町の人は大喜び。
喜ぶのはわかりますが、日系人と親しくなっている少年や町の人は原爆という国家の暴力が大勢の一般人を無惨に殺したことをどう思ったのか、『リトルボーイ』はそのことに触れません。

世界貿易センターの崩壊に中東の人は喝采し、ビンラディンの暗殺にアメリカ人が称賛するのと同じように、暴力を待望することは他者の傷みに無神経だということです。
安保法制が成立し、改憲の日程まで決まりつつあり、また北朝鮮に対するネットの意見を考えれば、香山リカ氏の指摘はそのとおりだと思わざるを得ません。

辻邦生『背教者ユリアヌス』は、キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝の次の皇帝ユリアヌスが主人公です。
キリスト教の公認を改め、優遇措置を廃止したユリアヌスを、辻邦生氏は排他的なキリスト教徒に比べて寛容な人間として描いています。
ユリアヌスがキリスト教司教に語ります。

真理がなんで自らの手を血で汚す必要があろう。正義がなんで自らを不正な手段でまもる必要があろう。(略)私は人間を自由のなかに放置する。私は人間を強制しようとは思わない。百年たっても人間は愚かであるかもしれない。五百年たっても人間は自発的に正義を実現しようとはしないかもしれない。千年の後にもなお絶望が支配しているかもしれない。しかし人間が人間を自由な存在としたこと自体が、すでに正義の観念を実現したことなのだ。

真実や正義を主張するのなら、人の血を流すことや、不正を働くことは矛盾です。
しかし、正義のイスに座り込んだら、そのことに気づかないのでしょう。

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増田弘『石橋湛山』

2018年01月04日 | 戦争

石橋湛山は1884年(明治17年)生まれ、1911年(明治44年)に東洋経済新報社に入社、1924年(大正13年)主幹になります。
増田弘『石橋湛山』によって、石橋湛山は戦争についてどんな考えを持っていたかを見てみると、先見の明があったことに驚きます。

1905年、早大生だった石橋湛山は、日露戦争の従軍布教師として満州に派遣されていた養父に送った手紙に、「従軍布教なるものに何等の意味をも発見し能はず」と、国に命を捧げることを美徳とする風潮を批判しています。

東洋経済新報社は「小日本主義」を提唱し、領土拡張や保護政策に反対でした。

石橋湛山は東洋経済新報社に入社してまもなくの1912年9月(明治45年・大正元年)には、

輩は日清戦争の当時、一人の非戦論がなかったことを今に遺憾に思う。日露戦前にあたり、十分に反対論の挙らなかったことを強く残念に思う。

と書いています。

・アメリカの日本移民排斥問題

1913年、カリフォルニア州で「排日土地法」が成立し、日本政府は抗議、メディアはアメリカを攻撃した。
ところが、湛山は日本の対米移民の必要性を否定した。
アメリカの排日運動は理屈ではなく、人種の相違に基づく〝感情〟問題である。
この問題は日米二国間だけでなく、一般的問題だから、受け入れるアメリカ側の立場も考慮すべきである。
当時の常識とされた人口過剰に伴う移民必要論を斥け、相手側の感情を害する移民奨励に警鐘を鳴らした。

1919年の国際連盟規約委員会で日本代表は、アメリカやカナダなどで日本移民が差別されている現状を捉え、「人種差別待遇撤廃」を提言したが、湛山はその非を論じる。

人種差別待遇の撤去に異議はないが、「差別待遇を、我国自身が内外に対して行い居る」ことを忘れてはならないと強調し、中国人労働者への入国差別、台湾人や朝鮮人への内地入国や土地所有などに対する差別を挙げる。
そのような差別をしている日本人が白色人種の有色人種に対する差別待遇の廃止を訴えたところで、何の権威があろうと皮肉っている。

・第一次世界大戦

第一次世界大戦の日本参戦は我が国の利益にならないと、反対を唱えた。

戦争は総ての場合に於いて利益を生む者にあらず。然るに之れに費す処は巨額の軍費と生霊あるのみならず、更に世界の信用制度を破壊し、自国民の生活をも、他国民の生活とも困難に陥るること、現に欧州の戦乱が我が国に及ぼせる影響に依っても知るを得べし。

第一次世界大戦の終結後は、ドイツの利権を奪うことを批判した。

亜細亜大陸に領土を拡張すべからず。満州も宜く早きに迨(およ)んで之れを放棄すべし。

湛山は帝国主義的な利権獲得政策はもはや時勢に合致しないと、帝国主義の限界を説いた。
ベルサイユ条約の内容について、戦勝国のドイツに対する領土割譲、軍備制限、賠償金請求が不公平、苛酷だと論じた。

シベリア出兵の意義を認めず、早期撤退と、ソビエト政権の即時承認を求めた。

十個師団の駐兵は月々数千万円の軍費に加え、輸送に多数の艦船を必要とし、金利は暴騰して有価証券は暴落すると、軍事的、経済的見地からも批判した。

・中国、朝鮮

1915年(大正4年)、中国に対する二十一カ条要求にも反対し、中国の反日感情が勃興し、これに日本側が反発することで日中関係が緊迫すると説いた。

隣り同士が互に親善でなければならぬ。礼節を守らなければならぬと云うは、決して個人間のみの事ではない。

国内外での中国人や朝鮮人差別に対しても厳しく批判した。

1919年の、朝鮮独立を求める三・一運動について、朝鮮民族が独立を回復するまで抵抗を止めないと予想し、朝鮮の独立を認めるべきであると主張した。

・満州問題、中国での利権

1910年代初頭以来、小日本主義を提唱し、満州放棄と植民地全廃論を掲げてきたが、石橋湛山は1920年代に満州放棄論を論じている。

満州は中国領土の一部であり、中国人を主権者とする外国の地である。
満州を併合しようとすることは、対日感情を激化させ、諸外国から非難を被ることになる。
また、日本が植民地を領有しても、期待するほどの利益を日本にもたらさない。
日本は海外領土を持つだけの国内資本に恵まれていない上に、植民地領有は軍事支出を増し、国家財政を圧迫する。
ところが、日本では「戦争は儲かるもの」「領土や賠償金を獲得できるもの」という戦争観に固執している。
そのような帝国主義路線は、日中関係ばかりでなく、日本の国際的孤立をもたらし、日米間の軍拡競争を復活させ、日米開戦という最悪のシナリオを予感させる。
満州や山東その他の在中国利権を日本がすべて放棄して開放するよう主張した。

1921年のワシントン会議に向け、軍備撤廃論を提言した。

対米戦争を避けるためには、日本が全植民地を放棄し、日米両国が軍備を撤廃し、日米が協力してイギリス勢力を極東から排除すべきだと説いた。
満州事変、満州国建国も批判している。

・日独伊三国軍事同盟

自由主義・個人主義の思想を擁護し、全体主義の思想を斥けた石橋湛山は、日本外交は対独伊接近策ではなく、米英両国との関係改善策に重点を置くべきであり、それが現状打開につながると主張した。
ドイツに媚びる日本の態度は「卑屈で正視に堪えぬ」と批判。

石橋湛山は戦時中も所信を貫いており、非戦論がぶれることはありませんでした。

よく逮捕されなかったものです。

1956年(昭和31年)に首相に指名された石橋湛山が閣僚名簿を昭和天皇に内奏すると、天皇は「どうして岸を外務大臣にしたか。彼は先般の戦争に於て責任がある。その重大さは東条以上であると自分は思う」と発言した。


脳血栓で2カ月で退陣しますが、任期を全うしていたら、岸信介とは政策、特に対米、対中政策は大きく違ってたでしょう。

残念至極です。
石橋湛山の主張は今こそ耳を傾けなければいけないと、『石橋湛山』を読んで思いました。

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東学農民戦争での日本軍の虐殺

2017年12月04日 | 戦争

伊藤智永『忘却された支配』は、東学農民戦争での日本軍の虐殺について触れています。
日清戦争では日本と清が朝鮮で戦い、朝鮮国民はひどい目に遭ったと世界史で習った記憶がありますが、それは正確ではありませんでした。
また、東学党の乱とは東学党という新興宗教の信者が起した反乱かと思ってたら、現在は「東学農民戦争」「甲午農民戦争」と呼ばれており、第一次と第二次蜂起があったことも知りませんでした。

そこで、中塚明、井上勝生、朴孟洙『東学農民戦争と日本』を読みました。
「東学党」という党はないし、「東学党の乱」という呼び方は、農民の決起を反乱だと見なした政府や役人の呼び方である。
第一次蜂起は朝鮮政府への蜂起だったが、第二次蜂起は日本軍と朝鮮の傀儡政権を相手にした戦争だった。
1894年(明治27年)春、圧政に反対する農民の反乱があった。
この第一次蜂起は農民軍が27か条の要求を提出して政府と和解した。

7月23日、日本軍は王宮の景福宮を襲って国王をとりこにし、ソウル城内の軍事施設を占領して朝鮮軍を武装解除、日本の言いなりになる政府に入れ換えた。
清とは、25日に豊島沖海戦、29日に成歓の戦いが行われ、8月1日に日清両国が宣戦布告をした。
清と戦争をする前に、まず国王を押さえたわけです。

戦史には、王宮から朝鮮兵に撃たれたので、やむを得ず応戦し、国王を保護したとなっています。
しかし、日清戦争開始直前の朝鮮王宮占領について、陸軍参謀本部の記録が残されています。
このことは公刊されている陸軍の日清戦史には書かれてないのです。
なぜなら、「清国が朝鮮の独立をないがしろにしている。日本は朝鮮の独立のために戦う」というのが日本の大義名分だったのに、まず最初に王宮を占領しているのはまずいからです。

そもそも日清戦争は、伊藤博文たちが反対していたにもかかわらず、陸奥宗光の策略によって起きました。
朝鮮政府を「狡猾手段」で脅し、清国兵の撤退を日本に依頼させるよう仕向けたのです。

10月、日本軍の王宮占領と国王の拘束に、全土の半分で農民が再び一斉蜂起した。
しかし、火縄銃とライフル銃、農民ばかりの軍と近代的な訓練を受けた軍隊との戦いのため、農民軍は敗退し、日本政府・朝鮮政府軍の方針で皆殺しの目に遭った。

朝鮮全体では約4千名の日本軍が動員された。
農民軍の参加者は数十万人、死者は3万~5万人と推定される。
日清戦争の死者は、日本が約1万3千人、清が約3万5千人だから、もっとも犠牲が大きかったのが朝鮮人で、その大半は日本軍に殺された。

1894年10月27日、参謀次長兼兵站総監だった川上操六少将は「東学党に対する処置は厳烈なるを要す。向後悉く殺戮すべし」という命令電報を現地司令部に送っていると、仁川兵站監部の日誌「南部兵站監部陣中日誌」に記録されている。
現地では川上操六の「悉く殺戮」という命令が実行された。

農民軍の死者は戦闘中だけでなく、捕まった後に殺されている者も多い。
朝鮮は日本の交戦国ではなかったし、仮に交戦国であったとしても、敵国の捕虜は国際法の捕虜取り扱いの慣行によって、将校であっても殺害されることはない。
しかし、東学農民軍に対して、日本政府と日本軍は国際法を意に介さなかった。

東学農民軍討滅専門部隊は後備第十九大隊三中隊で、大隊長は南小四郎少佐。
3つの街道を三中隊が南下し、「党類を撃破し、その禍根を剿滅し、もって再興、後患を遺さしめざるを要す」と命令された。
後備第十九大隊は全軍約600名は数十万名の農民軍を追い詰めて殺傷した。

南小四郎大隊長は「東学党征討略記」という記録に「長興、康津付近の戦い以後は、多く匪徒を殺すの方針を取れり」、「真の東学党は、捕ふるにしたがってこれを殺したり」と、農民兵を殺害する方針をとっている。
そして、「これ小官(南大隊長)の考案のみならず、他日、再起のおそれを除くためには、多少、殺伐の策を取るべしとは、公使(井上馨)ならびに指揮官(仁川兵站監)の命令なりしなり」と補足している。

徳島県出身の後備第十九大隊上等兵の陣中日誌が保存されている。

12月3日「六里間、民家に人無く、また数百戸を焼き失せり、かつ死体多く路傍に斃れ、犬鳥の喰ふ所となる」
1月9日「我が隊は、西南方に追敵し、打殺せし者四十八名、負傷の生捕拾名、しかして日没にあいなり、両隊共凱陣す。帰舎後、生捕は、拷問の上、焼殺せり」
1月31日「東徒(東学農民軍)の残者、七名を捕え来り、これを城外の畑中に一列に並べ、銃に剣を着け、森田近通一等軍曹の号令にて、一斉の動作、これを殺せり、見物せし韓人及び統営兵等、驚愕最も甚し」
2月4日「南門より四丁計(ばか)り去る所に小き山有り、人骸累重、実に山を為せり……彼の民兵、或は、我が隊兵に捕獲せられ、責門の上、重罪人を殺し、日々拾二名以上、百三名に登り、依てこの所に屍を捨てし者、六百八十名に達せり。近方臭気強く、土地は白銀の如く、人油結氷せり」


第十九大隊の戦死者は杉野虎吉1人。
12月10日に戦死しているのに、『靖国神社忠魂史』(1935年)には7月19日に清国軍との成歓の戦いで戦死したと記載されている。
どうしてかというと、朝鮮農民兵の殲滅作戦が隠蔽されたからです。

日清戦争では旅順でも日本軍は虐殺を行なっています。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/s/%E6%97%85%E9%A0%86

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政治の宗教利用

2017年11月26日 | 戦争

大昔になりますが、2004年4月7日、小泉首相の靖国参拝は違憲であるという福岡地裁の判決について、「産経抄」には次のように書かれていました。

裁判官に対する不信を強く感じた。一体、死者の慰霊や鎮魂ということへの日本の伝統文化をどう考えているのか、常識を疑ったからである。
国のために死んだ人々は英霊となり、靖国神社にまつられて“神”となる。おまいりすることはいわゆる宗教活動ではない。先祖をうやまう人間的で自然な儀礼なのだ。

毎日新聞でも岩見隆夫「粗雑すぎる靖国・違憲判決」と題したコラムに、「首相参拝がなぜ宗教的意義を持つかわからない」とありました。
神道は宗教ではないという国家神道の亡霊が今も生きているわけです。

慰霊や鎮魂、そして死者を神として祀ること、そして宗教法人に参ることが伝統文化であり、宗教とは別物だという主張に、神道関係者は抗議したのでしょうか。
靖国神社に参拝することは「宗教活動」ではなく、「宗教的意義」がないという新聞記者の無知は、宗教教育をおろそかにした戦後教育のせいかもしれません。

戦死者が靖国神社や護国神社に神として祀られることによって遺族が安心するという心情を政治が利用し、国のために死ぬ人を再生産する役割を靖国神社ははたしてきました。

島薗進氏は中島岳志氏との対談でこういうことを話しています。

大正デモクラシーの時代というのは立憲政治が整っていく一方で、社会史的に見ると結局天皇と一体感を持つ臣民を育てて、いわば下からの国家神道がどんどん育っている時代でもあった。(略)
とくに戦争が始まると、我が身を犠牲にするような軍人・兵士をマスコミは褒め称え、さらに民衆が喝采を送り、軍人・兵士も帰隊されたように振る舞うという循環構造になっていったわけですよね。(『愛国と信仰の構造』)

宗教を利用して国民の心を支配してきたわけです。
英霊は靖国に祀られると言って特攻に送り出すことと、殉教者は天国に生まれると教えられて自爆テロをする人とどう違うのか。

井上亮『天皇の戦争宝庫』は、皇居にある御府(ぎょふ)について書かれた本です。
日清戦争、北清事変(義和団の乱)、日露戦争、第一次世界大戦・シベリア出兵、済南事件・満州事変・上海事変・太平洋戦争の戦利品や戦死・戦病死者の写真・名簿を収蔵した5つの建物が皇居内にあり、天皇が英霊に祈りを捧げていると伝えられていました。

井上亮氏は小川勇『全国大社詣』(1944年)から引用しています。

苟しくも殉国した者に対しては其(その)霊は神として靖国神社へ合祀せらるゝのみならず、一々生前の写真を一室に保存し随時陛下に親しく玉歩を其(その)室に御運び遊されて、写真の傍に附記してある説明と引合はせて其(その)者の勲功を嘉し給ふと云ふ真に勿体ない事実を拝聞し、此でこそ吾々日本国民は国に殉ぜんとする際、必ず天皇陛下万歳を絶叫して死ぬ事が出来わけであると実感した。

御府は明治天皇の思し召しによって作られました。
天皇は臣民のことを常に考えている、ありがたいことだ、だから天皇のために尽くさなければならないという宣伝をしていたわけです。

一身を大君に捧げまつることは、もとより私ども臣民の本分である。更に、武人として戦場の華と散ることは、この上ない栄誉といはなければならない。しかも皇恩のありがたさ臣下の霊を神として靖国神社にまつらせたまひ、その遺影をさへ、高く御府に掲げたまうてゐるのである。この事を思ふ時、私どもは、たゞ感涙にむせぶほか、全く言ふべきすべを知らない。(1944年の高等科修身教科書)

戦没者が靖国神社に合祀された後、遺族は御府を拝観していました。
御府は「皇居の靖国」だったのです。

井上亮氏はこのように書いています。

天皇のために死ぬことが栄誉であるとかつてないほど強調されたアジア・太平洋戦争期、戦没者の霊は靖国神社に祀られ、遺影は御府に納められることがその栄誉の裏付けだと教育されていた。御府は靖国神社とセットで国民を戦争へ動員する装置になった。

敗戦になると、写真や戦利品は処分され、御府は廃止されました。
現存している建物は倉庫として利用されているそうですが、御府地区には立ち入ることはできません。

「戦争犠牲者は戦後の平和と繁栄の礎だ」という考えを、一ノ瀬俊也氏は「礎論」と名づけて批判しています(伊藤智永『忘却された支配』)。
戦争で命を落とした人たちは、自分がこの業苦を受忍すれば、日本は平和に栄えるはずと信じて死んだのか。
「礎論」は、生き残った者たちがやましさを取り繕い、因果をすり替えて唱和しているのではないか。
そこには、罪と責任から逃げたい心理が潜んでいる。
これは靖国神社に対する心情と同じだと思います。

追悼と謝罪は、折り合いが良くない。純粋に死者を悼む、その気持ちだけでは、謝らねば、という心境までたどり着かない。祈るなら、まず謝るべきだ、という主張は、往々にして素朴に悼む人たちを遠ざける。追悼は大衆の俗情で、謝罪は思想が陥る過剰な倫理なのか。どちらも和解への手順なのに、互いの道筋が交わらず、日本の中で分裂している。さらに和解の相手が、どちらが「正しい」かを言い出すと、反発が起き、分裂は過熱する。


村山富市首相は戦後五十年談話を出す前、文案を橋本龍太郎通産相に届けると、橋本龍太郎氏は「これでいい」と即答し、一つだけ、文中に「敗戦」と「終戦」が交じっていたのを、「潔く敗戦に統一したほうがいい」と注文したそうです。

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パトリック・キングズレー『シリア難民』

2017年09月12日 | 戦争

パトリック・キングズレー『シリア難民』の原題は「The New Odyssey」。
題名から、シリアからの難民だけかと思ったら、サハラ砂漠以南やエリトリア、アフガニスタン、イラクなど他の国からの難民も取り上げています。
難民は、リビアやエジプトから密航船でイタリアへ、あるいはトルコからギリシア、バルカン半島を経由してドイツ、スウェーデンへ。

2015年に取材して書かれた本なので、現在は状況が違っていると思います。
2014年にリビアやエジプトから密航船でイタリアに到着した人は約17万人。
2015年には85万人以上がトルコ経由でギリシアの島を目指した。

難民危機はEUに亀裂をもたらした。

ヨーロッパの人口は約5億人だから、85万人は0.2%なので、適切に対処すれば吸収できる数だし、移民の流れを管理するシステムを立ち上げれば、危険な海の旅に出ずにすみ、難民流入を秩序立てて管理できたはずだ。

西アフリカ、あるいはエリトリアやスーダン、ソマリアからリビアに行くには、サハラ砂漠を1週間かけて越えなければいけない。

ピックアップトラックに押し込められた人たちの中には、荷台から転げ落ちたり、熱中症になって死ぬ人がいるし、道に迷って死ぬこともある。
運び屋に身代金を請求され、家族や知人が支払うまで監禁されて拷問を受けることもある。

リビアに着いても、待機所に監禁され、家族に代金が請求され、支払われるまで監禁と拷問が続く。

食事は1日1回で、女性は強姦される。
口絵の写真に、船にあふれるばかりに大勢の人が乗っている写真があります。
横になることもできず、糞尿や嘔吐のにおいが満ちている。

パトリック・キングズレー自身もトルコからギリシア、バルカン半島を歩いています。

ギリシャへのゴムボートが転覆することもあるが、トルコではニセモノの救命胴衣が売られている。
途中で逮捕されて送還されたり、盗賊に金品を奪われるかもしれない。
運び屋を頼むと、冷凍車の中で窒息死するかもしれない。

そこまでしてヨーロッパ-に行こうとするのはなぜか。

社会福祉制度に寄生し、安楽な生活を求めているからだと考える人がいる。
そして、政府の閣僚やメディアは不安感を煽る。
日本でも、「何の苦労もなく 生きたいように生きていたい 他人の金で。 そうだ 難民しよう!」と書かれたイラストを描いた人がいます。
シリア難民は「なりすまし難民」だというわけです。

だけど
、イギリスのメイ内相(現在は首相)は「彼らは難民だという声があるけれど、地中海を渡ってくる人たちをよく見ると、大部分はナイジェリアやソマリア、エリトリアから来た経済移民だ」と語っているそうで、考えていることはこのイラストレイターと同じでしょう。

しかし、『シリア難民』によると、海を渡ってヨーロッパに来る人の84%が、難民発生国トップ10に入る国の出身。

ナイジェリアの北部はボコ・ハラムによって100万人以上が、ソマリアはアル・シャバブによって100万人以上が避難を強いられている。

アフリカで最多の難民を生み出しているのはエリトリア。

世界最悪の人権弾圧国と言われており、検閲国家ワースト10の第1位、世界報道自由ランキングでも最下位。
総人口に対する難民発生率では世界一で、毎月5千人の難民を生み出し、人口の約9%が難民になっている。(エリトリアの人口は511万人から630万人)
国連によると、2014年半ばまでに約35万7千人が国外脱出している。

エリトリアには憲法がなく、一党独裁で、選挙もない。

警察は裁判を経ずに人々を刑務所に送りこみ、処刑されることもある。
そして、ナショナル・サービスといって、男女を問わず16~17歳以上の国民を政府が無期限に管理する制度がある。
政府は、対象者の住む場所、従事する仕事、家族と会う頻度などをすべて決める。
国民は奴隷の状態に置かれている。
しかし、スパイ網を構築しているので、人々は家族や友達とも政治を話題にできない。
リビアからヨーロッパを目指すのがどんなに危険か知っていても、エリトリアの状況のほうがもっと悲惨だから、エリトリア人はリビアを目指す。

ヨーロッパが難民を保護しないから、命の危険を冒しても密航業者に頼らざるを得ない。

これはエリトリアだけではありません。
パトリック・キングズレーが何百人もの難民に「なぜ命の危険をおかしてでもヨーロッパに行こうとするのか」と聞くと、最も多かった答えは「ほかに選択肢がないから」だった。
ヨーロッパを目指して失敗しても、失うものは何もない。

道理にかなった長期的な対策は、莫大な数の難民が安全にヨーロッパに到達できる法的メカニズムを整備することだ。

第二次世界大戦後、そしてベトナム戦争後、ヨーロッパは大勢の難民を定住させているからできないはずはない。

だったら日本はどうでしょうか。

約1億2千万人の人口の0.5%、60万人の難民を日本国民は受け入れるかどうか。

「アムネスティ・ニュースレター」vol.471に「南スータンからの難民を受け入れているウガンダ」という記事があります。


2013年に紛争が始まって以来、これまでに180人超の人たちが南スータンを逃れ、近隣諸国で避難生活をしている。

その半数を受け入れているのがウガンダで、今も日に千人がやって来る。
難民には居住と農耕用の土地が与えられ、医療や教育などの公共サービスをウガンダ国民と同じように受けられる。
しかし、ウガンダは豊かな国ではなく、巨額の負担がのしかかっている。
国際社会に支援を求めているが、2017年に必要な20億ドルには遠く及ばない。

ウガンダだけでなく、2015年の時点で約120万人ものシリア難民を受け入れているレバノン(人口450万人)などの国に必要な援助金を国際社会は拠出すべきでしょう。
日本もせめてそれくらいはしないといけないと思いました。

(追記)
国連UNHCR協会「With You」第38号

「地中海を渡り、ヨーロッパに上陸した人の数の推移」
東ルート(トルコからギリシャ)
2015年 856,723人
2016年 173,450人

中央ルート(リビアからイタリア)
2015年 153,842人
2016年 181,436人

西ルート(モロッコからスペイン)
2015年 3,592人
2016年 4,971人


 

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特攻からの生還と振武寮(2)

2017年07月06日 | 戦争

林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者たちの収容施設』によると、沖縄作戦で特攻基地を飛び立った者は、飛び立った日付で戦死公報が作成され、軍籍から抹消され、二階級特進の手続きを取っていた。
それなのに、敵艦に突っこんだはずの軍神が生きて帰ってきては、世間に説明がつかない。
軍司令部にしてみれば、いまさら生きて帰ってこられても扱いに困った。

倉澤清忠「こんなにたくさん帰ってくるとはゆめゆめ考えなかったんですが、30人、50人とだんだん増えていきました」


出撃意欲をなくした特攻隊員の処置をどうするか、第六航空軍司令部は頭を痛めた。

倉澤「最初は軍専用旅館として大盛館を指定して待機させたが、すぐ満杯になってしまったんだ。引き返してきた特攻隊員を宿泊させると、一般の目につき易い。特攻隊の性格からして、死んでいるはずの人間が、途中で帰ってきたと噂が立つと軍神に傷がつく。それを第六航空軍としては最も恐れた。大盛館には出撃前の隊員も宿泊していたし、彼らの情けない姿を見ると心理的に悪い影響を与えかねないんだ」

生還した特攻隊員の扱いに苦慮した陸軍司令部は、福岡にあった第六航空軍指令部横に造った施設に収容し、一般人や他の特攻隊員に知られないように隔離した。
およそ80名ほどの特攻隊員が収容されていたといわれるその施設は、「振武寮」と呼ばれた。
行動は制限され、外出や外部との連絡(手紙・電話)は禁じられ、再び特攻隊員として出撃するための厳しい精神教育が施された。

倉澤参謀は毎朝6時半にやってくると、酒の匂いをぷんぷんさせながら「生きて帰ったお前たちには、飯を食べる資格がない」とわめき散らして、竹刀で殴りつけた。
「貴様ら、逃げ帰ってくるのは修養が足りないからだ」
「軍人のクズがよく飯を食えるな。おまえたち、命が惜しくて帰ってきたんだろう。そんなに死ぬのが嫌か」
「卑怯者、死んだ連中に申し訳ないと思わないか」
「おまえら人間のクズだ。軍人のクズ以上に人間のクズだ」

倉澤参謀は1944年9月に飛行機が墜落して頭蓋骨骨折をし、20日間も意識不明の重体になった。
命は助かったが、頭は割れるような痛みが走り、酒を飲んでは暴れた。
普通なら除隊するが、航士第五十期はほとんどが戦死していたため復帰した。
こういう人が参謀でいること自体がおかしいです。

林えいだい氏は倉澤清忠氏から次の言葉を引き出しています。

倉澤「要するに(特攻は)あまり世間を知らないうちにやんないとダメなんですよ。法律とか政治を知っちゃって、いまの言葉でいえば、人の命は地球より思いなんてこと知っちゃうと死ぬのは怖くなる。(略)
(少年飛行兵は)12、3歳から軍隊に入ってきているからマインドコントロール、洗脳しやすいわけですよ。あまり教養、世間常識のないうちから外出を不許可にして、そのかわり小遣いをやって、うちに帰るのも不十分な態勢にして国のために死ねと言い続けていれば、自然とそういう人間になっちゃうんですよ」

自爆テロとかいったことと通じる、重たい述懐です。

フィリピン特攻作戦以来、航空機による特攻の犠牲者はおよそ6千人といわれる。
目的を達することができずに引き返した隊員はほかにもかなりいるはずだ。

倉澤「出撃する特攻隊員たちの心情を汲み取ってやる思いやりがなかった。引き返せば国賊のようにののしった自分が恥ずかしい」


大貫健一郎・渡辺考『特攻隊振武寮』によると、アメリカは日本軍の暗号を解読しており、日本軍の動きは米軍に掌握されていた。
日本軍がどこに、どれだけの数の戦闘機を保有しているか、正確に把握している。
特攻についても、攻撃の時間、規模、さらには機材が不足し、練習機が特攻に使われようとしていることまでが事前に調べつくされていた。
しかも、沖縄戦では、米軍は160km先の動体を確認できるレーダーによって、沖縄に防空警戒網を張り巡らせ、約30分前に特攻機の来襲を察知した。

沖縄作戦での特攻はほとんど無駄死というか、使い捨てにだったわけです。
戦争で多くの人が無駄に死んでいったことによって、日本人は平和主義を選んだことを肝に銘じておく必要があります。

大貫健一郎さんはこのように語っています。

喜び勇んで笑顔で出撃したなんて真っ赤な嘘。特攻隊の精神こそが戦後日本の隆盛の原動力だ、なんて言う馬鹿なやつがいますが、そういう発言を聞くとはらわたがちぎれる思いがします。陸海軍あわせておよろ4000人の特攻パイロットが死んでいますが、私に言わせれば無駄死にです。(略)
いまの若者も不幸にして戦争に直面すればやむを得ず特攻隊員になってしまうかもしれない。そんな時代が二度とやってこないようにするためにも、私は自分が見た悲惨をしっかりと後世に語り継ぎたいのです。
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特攻からの生還と振武寮(1)

2017年07月02日 | 戦争

伊藤智永『忘却された支配』に、陸軍第六航空軍は特攻から生還した者を振武寮に隔離し、参謀が「なぜ死なない」と責め立てたことが書いてあります。
振武寮とは何かと思い、林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者たちの収容施設』と大貫健一郎・渡辺考『特攻隊振武寮』を読みました。
林えいだい氏は第六航空軍編成参謀の倉澤清忠少佐(86歳)に2003年3月から7月にかけてインタビューし、それから数日後に倉澤清忠氏は亡くなっています。
大貫健一郎氏は特攻から帰還した方です。

林えいだい氏は倉澤清忠氏に、最初にまず「失礼ですが正直いってあなたのことをよくいう隊員は一人もいません。早くいえば鬼参謀と恨んでいます」と、ズケズケと言っています。
こんなんで倉澤清忠氏がよく話をしてくれたものだと思いますが、倉澤清忠氏はいつ報復されるか分からないからと、80歳までは自己防衛のためにピストルに実弾を入れて持ち歩き、家では軍刀を手放さなかったと、率直に語っています。

1944年12月26日、連合軍の日本本土上陸が目前に迫り、陸軍は沖縄戦に備えて、新しく第六航空軍を創設した。
1945年4月6日、沖縄への特攻作戦が始まると、出撃した特攻機が機体のトラブルや不時着などで引き返してくることが非常に多くなった。
菅原道大第六航空軍司令官の日記には、特攻隊の5分の1が引き返したり不出発だったとある。

代替機受領のために、福岡の第六航空軍司令部の倉澤参謀のところに行った特攻隊員に対して、倉澤少佐は引き返した理由を厳しく追及した。
・目標地点まで行ったが、敵艦を発見できなかった
・天候が悪くて引き返した
・機体が故障した、など
開聞岳を通過してまもなく海岸に不時着することもあった。
古い飛行機を寄せ集めた特攻機だから、エンジントラブルとか故障が多い。
しかし、機体には全く損傷がないものもある。
海岸か島に不時着したり、海に沈めると、証拠がないから調べようがない。

倉澤「沖縄戦の特攻では最高四回引き返した隊員がいることを、私は記憶している。知覧を飛び立つが必ず引き返してくるんだ。エンジンの調子が悪いとか、オイルが洩れて飛行不能になったとか、いろいろと理由を述べるんだ。それが一人や二人ではなく、フィリピンの特攻の時には考えられないほど多くなった。第六航空軍としてはその対策に頭を痛めて、再び出撃させることに決めたんだ。そのためには徹底した精神教育しかない。ところがだ、一度引き返した者は絶対といっていいほど出撃の意欲をなくし、また次も引き返してくるんだ。娑婆の空気を吸うと、この世に未練がでてくるのか、死ぬことが怖くなっておじけつくもんだ。いくら気合いを入れて教育しても、無駄だということが分かった」


そもそも、やっと編成することができた特攻隊は、古い機体と技術を伴わない操縦士によるというのが実情だった。

倉澤「沖縄の特攻作戦が始まるというのに、第六航空軍には手持ちの特攻機が僅かしかなかった。急遽、各戦隊や教導飛行師団から特攻用の飛行機を寄せ集めたが、これまで練習用に使用していた故障機ばかりよこした。(略)修理させたが、部品が底をついていつ終わるか目途が立たないというんだ。それじゃ特攻編成はできたもんじゃない。知覧と万世で250キロ爆弾を搭載するので、操縦者はその重さに面喰らって、機体に浮力がつかないまま墜落してしまった。
航空本部に新部品を支給するように要請した。すると敵機の東海地方の爆撃で部品工場が全滅して、再開の目途が立たないから現有部品で間に合わせて修理せよというんだ。おんぼろ飛行機に爆弾を搭載するとどうなるかを、操縦経験のない陸軍上層部は全く考えていなかったんだ」

特攻機を航空本部に請求しても、新鋭機はどの戦隊も手放さなず、ノモンハン戦に使用し、訓練で使い古したおんぼろ機を提供してきた。
そのため、航空廠で修理して、特攻機に改修しなければならなかった。

ところが小月文廠では、エンジンの修理、組み立てを、基本教育も受けていない女学校の生徒にさせている。
エンジンを分解して破損部分を発見しても、新しい部品がないために交換できない。
機体のナットがゆるんで締まらず、手でも簡単に外れる。
完全に修理したと自信を持った戦闘機が、離陸中や着陸中に墜落して、操縦士が死ぬこともあった。

知覧飛行場に集結した特攻機のうち、出撃直前になって機体の故障で中止になる特攻機もあった。
最新鋭の一式戦闘機Ⅲ型隼はエンジンが不調で、知覧航空分廠で修理することになったが、一式戦闘機Ⅲ型隼を修理できる整備係が1人もいなかった。
陸軍の最新鋭の飛行機でもこのありさまだった。

当時の戦闘機は250キロ爆弾を爆装するようには設計されていないので、改修するためには時間がかかる。
隊員は十分な編隊訓練をする時間もないまま、前進基地へ集合を命じられ、知覧基地ではじめて250キロの爆弾を爆装した隊員が大部分で、離陸中に浮力がつかず、墜落事故も起こった。
若い操縦士は技術が低く、特攻隊訓練を担当していた東郷八郎氏は「特攻の任務を果たせるか、非常に疑問を抱かせるレベルの操縦士が多かったのは事実です」と語っている。

こんなひどい状態で特攻に送り出していたとは知りませんでした。
いったい何のための特攻だったのかと、あらためて思いました。

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