ゆみちゃんの365日

日々の出来事を綴っています。

お年玉付き年賀葉書の抽選日はいつか知っていますか?

2008-01-18 16:06:32 | 日記・エッセイ・コラム

まだかまだかと毎日、新聞を広げてお年玉付き年賀葉書の、当選番号を探している人は、私一人では無いと思う。今日も広げて見るも見当たらない。辛抱たまらず女房に聞いてみた。「27日と聞いたよ」と返事が返ってきた。「そうかなるほど」と日本郵政グループのコンタンが読めて納得した。昨年の後半からテレビコマーシャルで年賀葉書を出しましょうキャンペーンを何度も目にした。なかなか上手にできているので感心していたが、急に年賀葉書が売れまくるはずもない。今年の年賀状を「郵政民営化後の初の大事業」と位置づけ2倍の広告宣伝費をかけ、その総額は80億円もつぎ込んでいる。そして販売総数は約40億2000万枚と、前年度の6%増しだ。これを企画した人間は、毎年売れ残りは2億枚近いことを知っている。民営化されたら売れ残れば責任問題が発生する。今年もやはり松の内の7日までに大量の年賀葉書が売れ残った。これを何とかしようと思えば、販売日を延長し少しでも売りたいのが人情である。去年までは1月8日までだった年賀状の販売日を10日も延長して、1月18日の今日までに変更したのだ。常識ある人間であれば「松の内を越えてから年賀状を出すバカがおるか」と誰しも思うはず。例年は成人式の日が、お年玉付き年賀葉書の抽選日だったわけだが、皆さんもこれで27日に延びた理由が、理解できただろう。テーブルの上に置いた年賀状を早く片付けなければ、何故か落ち着かない。

1月19日の○日新聞の夕刊を読めば、やっぱり全国には、お年玉付き年賀葉書の抽選日が、例年より延びたことを知らない人が多くいるようだ。
既に抽選が終ったと思い込んでいる人たちから「当選番号は決まったのか」といった問い合わせが日本郵政に相次いでいる。抽選は九九年まで、ほぼ毎年十五日の「成人の日」に開催。二〇〇年から成人の日が「一月の第二月曜日」に移行したため、一月中旬の日曜日に行っていた。年賀葉書の発行枚数は、年賀メールの普及などから、〇四年用の約四四億五千万枚をピークに減少傾向にある。民営化した日本郵政は減少に約八十億円の広告費を投入。「年明け年賀」もPRし、販売期間も昨年は一月九日までだったが、今年は十八日まで延ばした。このため、お年玉抽選も二十七日の日曜日になった。日本郵政によると、努力のかいもあって、販売枚数はほぼ前年並みという。
広告費を倍増して販売枚数が前年並みとは、儲けたのは広告会社、製紙会社、印刷会社で肝心の日本郵政は儲かってはいない。来年の抽選日は今年と同様か元に戻すかどっちだろうか。私は抽選日を元に戻すのではと予想する。それこそ今年のように下旬であれば「KYな日本郵政」のレッテルを貼られるだろう。

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友との永遠の別れ

2008-01-18 00:32:27 | 友達

1月17日
13年前の今日は「神戸、淡路大震災」があった日だ。5時過ぎに目が覚め、東京で行われるT君の告別式に行く準備をした。城陽を6時半の電車に乗り、荻窪駅まで行った。所要時間3時間40分くらいだった。駅を降りると風があり、ムチャクチャ寒い。京都よりもむしろ寒い感じがした。昨日、東京は雪がちらついたようだ。荻窪駅に降りたのは初めてであった。中央線の車窓から眺める東京は、どの駅も同じように見える。周り360度が家、家、家で空間がない。自分の住んでいる所は周りは田畑なので、こんな都会の風景を見れば、田舎も捨てたものではない。
Dsc00625 2008_01170019 葬儀場の光明院は、寺の中にセレモニーホールがある。受付を済ましホールの入り口で、開始を待っていた。親族控え室の中から出てきた人に、故人の奥さん:通称マメちゃんに良く似た方が現れた。マメちゃんかと思い、お悔やみの言葉をかけようと思ったが、近づくと頭髪は白く、余りにも老けて見えたので、親族の方と思い声をかけるのをやめた。
式場に入れば祭壇には、K社並びに関係会社からの献花で埋め尽くされ、正に社葬のようだった。列席者の顔を見れば、K社の会長を筆頭に社長も列席されている。11時半に式が始まった。喪主の席には、何と親族の方かと思っていた方が座っている。これだったら、お悔やみの声を掛けるべきだったと悔やんだ。
焼香が始まり、まずは喪主からだ。焼香が終わり、喪主の歩く後ろ姿を見れば、昔のまんまだった。歩き方は、デューク更家に教えてもらわない限り、矯正は難しい。これも個性なので、何も矯正する必要もない。内股のハの字は、なよなよの女性だが、マメちゃんは外を向いた、ハの字で力強い。焼香台は7つあり、パイプイスには左右、7人づつ座っている。一度に座っている席の列が、焼香台に向かう。200人以上の方が焼香されたが、そんなに時間はかからない。弔電披露があったがK社の会長の弔電は、ありきたりの定型文ではなく、ご遺族の方が安心するような励ましの内容であった。高校の先輩で、会社の先輩のOさんの弔電も、T君の高校のときのエピソード、入社した19歳の時、大阪府代表で機械製図の技能オリンピックに出て頑張った話やら手紙のような長い弔電で、彼の人となりを皆さんは、知ることが出来ただろう。弔辞は二人が代表して述べたが、一人はT君と一緒に仕事をしたHさんで、アメリカ赴任中に、ホームパーティでT君が寿司ネタを自分で仕入れて、ねじり鉢巻で美味しい寿司を食べさせてくれたこと、いつもにこにこ顔で、外人からも愛されトニー・Tとニックネームで呼ばれていたこと、何と言っても彼の持っている、豊富な経験に裏打ちされた技術力を誰もが評価していたこと。それには説得力があり弔辞を述べた人も、羨望の眼で見ていられたようだ。ドイツへT君が赴任したときは、Hさんも後でT君の後を追うように転勤になり、経営が傾きかけていた会社を一緒に立て直したが、これができたのは、彼の功績が大だったと賛辞していた。二人目は会社の工業専門学校の同期生で、この方の弔辞もなかなかユニークでホール中に響き渡る絶叫で、早すぎる死を悼み、別れの言葉を述べ涙を誘った。T君が闘病中に、何かと励ましに行ったときのエピソードなど、知らない話を聞けて大変よかった。
式が終わり、希望者は故人に花一輪をたむけ、最後のお別れをした。何せ列席者が多いので、立ち止まらないでくださいの進行係の声で、十分に故人の顔を見れなく、涙の出るひまが無いくらいの早さには閉口した。出棺準備が整い、最後は喪主の挨拶だった。喪主のマメちゃんは憔悴しきっており、二女が成り代わって述べた。昨年の1月からT君の体の異変は、最初は右手から始まり、左手に移り、段々衰えていった様だ。苦しい彼の一年間の闘病生活は涙を誘った。苦しくても、いつでも回りには朗らかな顔をして、前向きに生きていたようだ。T君が昨年、「入社してからの我が奮闘記」の手記を書き上げ、その中から引用して披露してくれた。「我が人生は最高だった」と子供の前で言えるT君には尊敬の念を抱く。私が子供の前で言うとすれば何と言う。競馬と酒と麻雀ではなあ・・・。是非とも一度読ませていただき、故人を偲ぼうと思っている。出棺は寺の釣り鐘をゴーンと突けば出棺の合図だ。霊柩車に向かい深々と頭を下げた。三つ突き鳴らし三台の車は火葬場へ向かって消えた。二人の娘さんは、幸いにも結婚して伴侶がいる。マメちゃんは寂しくなるが、立派な娘さん二人が助けてくれることだろう。T君安らかに眠ってくれ。合掌。

コメント (4)
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