百姓通信

自然と素直に向き合い、全身で風を感じて私は百姓しています。
①土づくり②循環型③無農薬・無化学肥料④永続性を大切に!

2021-04-11 23:33:40 | Weblog
「音」といえども
「聴こえない音」は私たちにどういう影響を及ぼしているのか?
すべての「音」が、聞こえればうるさくって仕方がない
いろいろな「音」がする
中には「聴こえない音」もある
この「聴こえない音」が私たちにどういう影響を与えているのか?
世の中はなんとも不思議なことばかり・・・

神木

2021-04-11 22:47:21 | Weblog
その「神木」は保安林の中にあった。
「神木」は深い自然に守られている感じがする。
そんな「神木」は私たちに何を求めているのか
私たちは「神木」に何で貢献できるのか
喧騒から逃れ、ゆっくりと流れる時間を身体で感じながら
普通では聴こえない「音」を探し求めて
なんとも有意義な「時」を過ごす。

扇骨

2021-04-09 21:13:27 | Weblog
「扇骨」
「扇骨」とは扇子の骨のこと。
実は国産の扇骨(竹製)のほとんどが滋賀県の高島で作られている。
扇骨は両外側の2枚を「親骨」といい、内側を「仲骨」という。製作は親骨18工程、仲骨16工程にもおよび、職人から職人へ作業が移る分業体制になっている。親骨、仲骨、いずれにも3〜5年育った良質の竹が使われる。扇骨に使うのは皮と中身を削り取った、ほんの一部。9割が廃材となる。
そんな扇子も最近のコロナ禍では、販売高が急激に低下し、新しい販路を模索せざるを得なくなっている。

4月8日

2021-04-08 23:50:20 | Weblog




4月8日は言わずと知れた「お釈迦様の誕生日」
「誕生日」には諸説あるようだが、日本では大乗仏教の流れから灌仏会(かんぶつえ)を開く寺院が多い。
呼び名としては「降誕会(ごうたんえ)」や「仏生会(ぶっしょうえ)」「浴仏会(よくぶつえ)」「龍華会(りゅうげえ)」と呼ばれ、桜の花の開くころと重なることから「花祭り」「花会式(はなえしき)」と呼ぶこともある。

しかし、「花」は「桜」を意味しているのではなくルンビニ園(お釈迦様がお生まれになった)に花が咲き乱れていることに由来することから「花祭り」や「花会式」と呼ぶようになったとする説もある。

石楠花

2021-04-07 23:26:07 | Weblog
立てば「芍薬」
座れば「牡丹」
歩く姿は「百合」の花

牡丹の花が4月末〜
芍薬の花は5月中旬〜
百合の花は6月初旬〜

石楠花の花は4月〜
自然状態でも交雑種が多く、種類は多岐にわたるようで、「花な色」も赤〜白、黄色等多種に拡がり、開花期間は6月まであるという。

枝垂れ桜

2021-04-07 21:15:39 | Weblog
今年はソメイヨシノの開花も早かったが、枝垂れ桜の開花も早かった。
もうツツジや石楠花が咲いていたりする。
春がドットやってきた、北海道の春のような昨今の本土の“春”である。
今年は、枝垂れ桜の挿し芽栽培に挑戦してみたい。
開花の前後の時期が挿し芽の適期だそうなので、5〜6月に実施することにしたい。

4月5日

2021-04-05 21:02:05 | Weblog
「4月5日」は拓郎の誕生日
もう75歳なのだろうか?

拓郎は、1970年になって、フォーク村の仲間たちとオムニバスアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を自主制作し、注目を集める。
そして同年の6月1日、彼は23歳にして「イメージの詩」と「マークII」をカップリングしたシングルでエレックレコードからデビューを果たす。
レコードはファーストアルバムが「青春の詩」セカンドが「人間なんて」、これで不動の地位を確保した。
「イメージの詩」は本当は42番まであるという。その中でも
「古い船には新しい水夫が 乗り込んで行くだろう 古い船を 今 動かせるのは 古い水夫じゃないだろう なぜなら古い船も 新しい船のように 新しい海へでる 古い水夫は知っているのさ 新しい海のこわさを」
という歌詞はなんとも力がある。
自主制作のタイトルになるはずだ。

「詩」に「生き方」を教えてもらう
そんな「詩」はなんとも素晴らしい‼︎

平常心

2021-04-04 21:20:18 | Weblog





《平常心これ道》と禅宗では語られる。
道元は「修証(しゅうしょう)一如(いちにょ)」すなわち、修行の結果として悟り(証)に達するのではなく、修行(坐禅)そのものが悟りだという。
また、「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」

起きてる時も、歩いているときも、坐っているときも、寝ているときも。日常の立ち居振る舞いがすべてを物語るといい、
禅宗では、起きて顔を洗うこと、食事をいただくこと、歩くこと、坐ること、日常生活のすべてが修行であり、日常生活の中にのみ仏法は存在しているという。
まさに非日常的な荒行や難行から仏の道が開けるわけではないのである。

砂時計の詩

2021-04-03 23:44:30 | Weblog
山本富士子さんの投稿で「砂時計の詩」というタイトルのご主人から贈られたというバースデーカードに書かれた詩が印象深かった。

「一トンの砂が、時を刻む時計があるそうです。
その砂が、音もなく巨大な容器に積もっていくさまを見ていると
時は過ぎるものではなく
心のうちに からだのうちに積もりゆくものと、いうことを、実感させられらそうです。
時は過ぎ去るものではなく
心のうちに からだのうちに積もりゆくもの」

「時」を過ぎ去るものではなく
そう積もっていくものと考えると
「年をとる」こともそう悪くない

陽光

2021-04-02 23:27:12 | Weblog
まさに「春本番」
少し風があるので、週末の雨で
折角の桜も散ってしまうかもです
「花が散る」
主に「桜」は「散る」と言いますが、
「梅」はそれを「こぼれる」と言い、
「椿」は「落ちる」と言う。
それぞれの「花」の最期には特徴があり

潔くひとひらひとひら舞う花弁が美しい「桜」と
なんとか頑張って雨にも負けずに風にも負けず残りたい思いを持ちつつ落ちていく「梅」、
花ごと、地面に落ちてしまい、武士の最も嫌がる「椿」の最期など、
それぞれの「花」にあるそれぞれの特徴は、なんだかそれぞれの生き方を映し出しているかのよう。