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祖父のもとで

祖父のもとで

                                                      6回

小さかったから、東京の記憶はないんだけど、富士宮へ疎開するまでは、荏原のじいさんのところに住んでいた。時々目を懸けてくれてたみたいで、じいさんの「権力」のもとでぬくぬくと育っていたことは間違いないだろうな。

 じいさんは、もともと富士宮の大地主だったんだ。

農地解放で農地はみんな返したけど、その前の謄本を見れば載ってるよ。何十町歩(ヘクタール)レベルじゃない。

 富士宮の駅からじいさんの家まで2キロぐらい全部だとか、じいさんの土地を通らないとどこへも行けないとか、まあ何百町歩のレベルだ。大地主も大地主、富士宮で一番だった。

 歴史を辿って見ると、いろいろな事業をやっていて、経済界にも政界にもいろいろな影響力のある人だったという話だ。

 大正時代には駿河鉄道、今の伊豆箱根鉄道かな、それの創設時に取締役か専務をやって、駿河銀行も初代の時に取締役で、富士川発電と云って今は東京電力に合併されてるけど、その創始者の一人でもあるらしい。地元じゃ超財閥だ。

 東京から富士宮に帰れば、町民が旗を持って迎えに出るぐらいだったって。それから戦前は満洲のチチハルかな、そこで大きな繊維工場をやってて、当時アジアを動かした大物たちとの交流もいろいろあったようだ。

 頭山 満と一緒に酒飲んで語り合ってる写真とか、当時、東京市長だった後藤新平と肩組んでる写真があったからね蒋介石が日本にいた時は、ずっとうちのじいさんの所から通わせてたらしい。要はパトロンだな。

 じいさんが蒋介石と友人だった関係で、親父は大学を出た後、大陸へ渡って学校の先生をしてたんだ。

終戦後もじいさんはずっと東京にいたんだけど、昭和21年か22年頃、元軍人だとか、自分がかわいがっていた人間達が、いろいろと相談に来てたらしい。

 そんな中で東京湾の浅瀬に陸軍が船ごと金塊を沈めたという話を聞いて、それを海底から引き揚げたことで有名になったんだ。その時の写真もいっぱいあったし、当時の新聞にも一杯報道されてるから間違いないよ。

 じいさんは戦中から特に阿南惟幾(あなみ・これちか)陸軍大将(陸軍大臣、ポツダム宣言受諾直前に自害)とは親しかったそうだから、陸軍関係の正確な情報が入ったんだろうな。

当時はアメリカの占領下だったから、引き揚げた金塊は一旦アメリカに渡ったんだけど、後になって国庫に入ったらしい。そういえば、「大蔵大臣・田中角栄の一筆をどっかで見たな・・・・。

 角さんが大蔵大臣をやってた頃といえば、昭和30年代の後半だろ。その頃に金塊が日本に戻されたとしたら、じいさんが引き揚げてから15年も経った後の話だ。いづれにしてもそれがじいさんの最後の大仕事だった。

 金塊を引き揚げる資金を作るのに財産を売って、今で言うと10億とか20億、もしかすると50億とかをつぎ込んだんだよ。

金塊を手にしたら、それを元手に、日本を縦に貫く高速道路を造ろう。その「日本縦貫高速道路」が完成したら、北海道から九州までの物資輸送が飛躍的に発展する。 

 それに道路建設で街にあふれる失業者も減るはずだ。

セメント、鉄鋼業界も潤うだろう――と、いろいろ考えてたらしいわ。

 けれど結局、金塊は米軍に持って行かれて、だから最期は金無しになって死んだんじゃないかな。確か昭和24年だ。伊豆長岡に、面倒を見ていた「大和館」という大きな旅館があって、そこで死んだ。ただじいさんの経済力や、それをバックにした政治力、人脈が並外れていたことは間違いないよ。

 そういう話は、中学を卒業してから周りの人に教えてもらったんだ。「あんたのおじいさんは凄かった」って。     続く。

 

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