湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

耐震偽装事件

2006-11-20 14:17:40 | Weblog
皆さん、憶えていますか
1年ほど前、世間を騒がせた耐震偽装問題

事件発生以来、私も新聞報道には注意をしていたのですが
やがて急速に関心を失いました
新聞報道とは違い、私は姉歯建築士の単独犯であると考えたからです
共犯がいたとすれば、役所です
彼の偽装を見逃した役所です
そして、それ以外の関係者は被害者です
世間から袋叩きにされた建設会社や住宅販売会社は
姉歯に騙された被害者だったのです

最近の法廷で明らかになった事実によれば
私の勘が正しかったようです

当初、報道機関は、強欲な建設会社や不動産屋の犠牲になった
貧しい建築士という構図を描いていたように思えます
病弱の妻の医療費をかせぐためだったという
今時、めずらしいお涙頂戴調の話もありました
実際、かれの妻は事件発覚後、投身自殺をしてしまいました
法廷で明らかになったのは、姉歯建築士が違法行為で稼いだ金は
愛人との交際費や、高級外車の購入資金に充てられたということです

耐震偽装をするきっかけも、はじめは検査で指摘されると思っていたら
意外にも、検査に引っかからずに、通ってしまったので
その後はずるずると、その手法を繰り返したということです
地震が来れば危険なことは承知していても
地震は何時来るか分からないので、その時はその時だと、居直っていたのです

日本の役人や政治家は法律や規制を作ることに熱心ですが
それらを守り抜く決意も能力も乏しいのです
真面目な業者は徹底的にいじめられてしまいますが
はじめから、法律を守る気のない連中には
とんでもない抜け道が用意されているのです

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過去もまた夢

2006-11-19 10:36:15 | Weblog
百円札というものを今の若い人は知らないでしょう
でも私の小学生のころは流通していました
板垣退助の肖像のお札です

母の実家に行くと、火鉢の前に座った祖父から
お小遣いがもらえました
いつも百円札を数枚くれるのでした
今、思い出しても、懐かしいというより
あれが現実なのか、夢なのか判然としない気分になります
まるでテレビドラマの1シーン
昭和時代の一場面という感じです

過去というものは
良いものであっても、悪いものであっても
もはや存在しないものです
消えたものの中に、いとおしいものが沢山あります
時の流れは、善悪や好き嫌いを超えて
すべてを押し流していきます

昨日の夢が今日の現実になることもあれば
今日の現実は明日の夢となってしまうかもしれません
望みは実現するかもしれませんが
望まないことも、実現してしまうこともあるでしょう
消えてほしいものも、消えてほしくないものも
等しく、過去は過去として、私達の記憶の中にしか残りません

自宅で作った味噌、醤油、お茶
ニワトリを絞めて、血を抜き、腹をさばく父や祖父
オートバイのようなハンドルの付いた
クロガネの3輪トラック
昭和30年代とは、現実なのか夢だったのか
私にとっては、懐かしさよりも
夢見る想いで、思い出す過去です
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夢と現実

2006-11-18 11:18:27 | Weblog
夢と現実は、私にとって、ひと続きのものです
文明社会といいうものは、地球上に元から存在したものではなく
人類の夢がひとつひとつ実現した成果なのです
誰かの夢が現実となったものなのです
それらの集合体が私達の現実なのです

夢を諦めなかった人々が現在の私達の現実を作りました
明日の現実を作るのは私達です
私達の夢です
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夢をあきらめないで

2006-11-17 14:33:47 | Weblog
夢をあきらめないで
そういう題名の歌があります
私の好きな歌です
長男がはじめて、水泳の公認記録会に出場するようになった時
よく聴いていました

夢が現実であり、現実が夢である
私は、そんなふうに考えることがあります
現実って何でしょう?
ビルの谷間を歩き、洒落た喫茶店でコーヒーを飲む
そんな当たり前の現実は、しかし、ほんの数10年前の
同じ場所には存在しなかったものかもしれません

私の子供の頃は、一面の葦の原だったところが、
中高層のマンション群になったのは何時のことでしたか
若い人達にとって、生まれた時からの現実は
少年時代の私にとっては幻想の世界です

今、私は藤沢の駅の近くに小さなビルを建てています
一年以上も買い手の付かなかった、裏通りの小さな土地は
雑草の生えた駐車場でした
私はその場所に、ちいさな明るい感じのビルを建てることで
その通り自体が明るくなると、想像しました
そんなイメージが湧くと、私はビルが建てたくなるのです

今まで、いくつかの建物を建ててきた私ですが
私の建築への情熱を支えてきたものは
私の想像であり、夢でした
自分の夢に形を与えたい
それが私の情熱です
私は現実の景色を見ながら
私の頭の中のもうひとつの現実、夢を見ているのです
それは、私にとって
目の前の現実より、さらに実感のある現実なのです
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勇気について

2006-11-16 18:20:37 | Weblog
思い残すことが無いほど、充実した人生なら
死への恐怖も無くなるでしょう
そのためには、思う存分、自由に生きることです
私達が死を恐れるのも、現世に何がしかの未練があるからで
どこかに、生の充実を妨げられた生き方をしてきたからでしょう

確かに、現実には、自由に生きようと思っても、多くの制限があるものです
しかし、その大部分は、自分で自分を規制してしまったものではないでしょうか
本当は、もっともっと自由に生きられるのに
私達は自分で自分に制限を作り、その枠の中で生きているのではないでしょうか
自分の壁を破るという表現があります
その通りではないでしょうか
本当にやりたいことを制限しているのは自分自身ではないでしょうか

自分に無関係なことなのに、何かといえば、他人の批判をいう人は
本当は自分自身が何かに囚われている人なのかもしれません
自分がやりたくてもできないことを、他人がやると
むしょうに腹が立つのです

実際問題として、私達が他人から具体的な制限を受けるのは
犯罪行為だけです
犯罪行為を心から欲するのは、通常は精神に問題のある人だけでしょう
普通の平凡な人が、自由に生きられないのは
もっぱら、本人に勇気が無いことが理由です
つまり臆病なのです

勇気を失うことで、自由を失うわけです
そして、勇気を失うことで、自由以外にも、
たとえば・・・真実を追究することも、愛に殉じることも
出来なくなるのです
そう考えると、勇気とは、極めて重要なものであり
自由も愛も真実も、勇気無くしては
手に入らないものだということが分かるはずです

平和主義が
臆病者の言い訳でなければよいと思う
今日この頃です
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子供を育てる困難

2006-11-15 13:44:22 | Weblog
私自身が5人の子持ちであり
子育ての真っ最中ですから
子供や親子をめぐる、様々な事件に、いやでも関心が向きます

子供を育てられない親がいます
時に、それが悲惨な事件を引き起こします
当然、世間には可哀相な子供達への同情と親への非難の感情が起こるのですが
新聞やテレビが露骨に親を非難することはありません
事実を報道する以外、あまり発想が起こらないようです
テレビは、いつものごとく興味本位に報道しているようです

私は報道関係者の多くが子育て経験が無いことが
子供関係の事件の報道を底の浅いものにしている原因のように思います

子育てを実際にやってみれば分かりますが
それはそれは大変なものです
とくに母親の苦労たるや、普通の女性にとって、人生最大の試練かもしれません
もちろん子育てを動機付ける大きな喜びもあるのですが
子育て自体は楽なことではありません
24時間365日、休みの無い、無給のサービス業です

本人の努力、周囲の協力、経済的裏付け・・・
何か一つ足りなくても、子育ては上手くいきません
世の多くの大人達は、そのことを熟知しています
ですから、不幸な事件が起きても、一方的に親を非難しません
何か困難な事情があったのかもしれないと考えるからです

しかし現実の事件を私なりに判断すると
加害者たる親に同情できません
あれでは、子供達が可哀相です

不幸な事件を減らすためには
合法的な育児放棄システムを作る必要がありそうです
昔はお寺さんやお金持ちのお屋敷の門前に
赤ちゃんを置いていく母親もいたようですが
より近代的で安全なシステムを作ることはできないものでしょうか
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自分の意見

2006-11-14 10:31:20 | Weblog
自分のことを、自分なりに考えるのは
人間として当たり前のことです
でも、どういうわけか、そうならない人々がいます
自分のことは脇に置いて、他人のことをとやかく言うのです
私が人と話していて、常に不満に思うのは
つまり、お前はどう考えているのだ、ということです

自分の意見というものは、案外、何も無いのが普通の人なのかもしれません
強い調子で自分の意見らしいことを言う人も
その内容をよく聞いてみれば
何処かで誰かが、言ったり書いたりしていたことだったりします
かく言う私自身、自分がオリジナルの考えをもつ人間だとは思えず
まあ、平凡な男だなと感じています

ただし、私が注意していることはあります
自分で見たこと、感じたことに関しては、正確を期すということです
最近は、このブログがあるので、新聞の論説者よりも
私の方が早い論評ができることがあって、嬉しいです
そんな時は、ちょっぴりだけ、自分のオリジナルな感想が
日本のトップクラスのオピニオンリーダーと変わらないのが実感できます
オレもまんざら捨てたもんでもないな、と感じます

自惚れはともかく、自分が平凡であることに変わりはありませんので
ブログの題材も平凡にならざるを得ません
この問題を解決するには
より個人的な内容を扱えばいいのですが
まあ、一応、私にもプライバシーがありまして
書けることにも限度があります
それに、読者も面白くないでしょう
悩みは続きます
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自分は見えない

2006-11-13 13:55:37 | Weblog
自分というものは、自分では見えないものです

あるがままの自分も見えないし
かくありたい自分、願望としての自分すら、当人には見えないのです
こうなりたい自分を人は夢見ます
それは客観的には十分実現可能性のある夢である場合も多いです
にもかかわらず、本人が勝手に
自分には無理だと諦めてしまうことが多いものです

もちろんその逆に、実現不可能な夢を追い続ける人もいます
私はどちらかというと、こういうタイプの人が好きです
人生というものは、やってみなければ分からないものです
失敗もあるでしょう
しかし、ひとつひとつの失敗は
けして、人生そのものの失敗を意味しません
人生の失敗というものは、往々にして
夢を諦めた時に起きるものではないでしょうか

自分探しの旅なんて言い方もあります
でも、自分なんて、いくら探しても見つかりません

2枚の鏡を向かい合わせに置いたように
鏡と鏡のわずかな隙間に身を置けば
鏡の向こうに鏡が映り、そのまた先に鏡が映ります
実際には、鏡と鏡のわずかな隙間しかないのに
鏡の向こうに無限の空間が広がるのです
それは虚像です
どこまでも続く虚像の連続です

自分を探すということは
立ち止まったまま、虚像に幻惑されることのように、私には思われます
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自分

2006-11-12 08:11:57 | Weblog
自分のためにがんばる
自分のために生きる
自分をほめてあげたい
自分へのご褒美
自分




どこまで続くのでしょう

私は自分のために、けして全力を出すことはできません
自分のためだけを考えるなら、凡そ努力と名の付くことなど
何もしたくありません
自分のためにしたいことといえば
寝ころがって
おやつ食べながら、テレビを観ることくらいです
そうでなければ、一日中好きな本を、誰にも邪魔されずに、読んでいたいです

私にとって”自分”とは、平凡な普通の人間であり、男です
私は人から粗末に扱われるのは嫌ですが
とりたてて、特別扱いされる必要も無い人間だと思っています
趣味や身の回りのことなら、多少はこだわりもあるかもしれませんが
それ以外のことは、はっきり言って、どうでもいいです
ですから、他人にまで、過剰に”自分”を主張する人が理解できません

私は、できることなら、自分以外の人や、物事のために生きたいです
それは家族であるかもしれませんし、地域社会であるかもしれません
自分に関係する人々の全て、自分の愛する全てのもののために
なんらかの形で、役立てるように、生きたいと思います

献身的でも自己犠牲的でもない私ですが
私という一個の肉体の安逸のために、何かしようという行動は
まず、ありません
私だけでなく、多くの人の行動が、そのようなものになっています
満員電車に揺られるサラリーマン諸氏も
好き好んで、あの生活をしているわけではないでしょう
皆さん”誰か”のために、あの努力をしているはずです
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思考と行動2

2006-11-11 11:32:54 | Weblog
何かの行動をしている時、私達は、その行動については考えません
その次の行動について考えます
思考が行動を作り、行動が思考を作るわけです

私達の精神と肉体の関係は、思考と行動の関係となります
肉体は行動を欲し、精神は思考を欲します
行動が思考を促し、思考は行動を促します
肉体と精神の強さ、指向がその人のキャラクターを作ります
スポーツの得意な肉体を持つ人は、スポーツをするために
あるいは、スポーツをする機会を作ることに、精神のエネルギーを使います
体の弱い人は、なるべく体を動かさなくてすむように、頭を使います

精神と肉体は密接な関係があります
体調が悪く、外出するのも気が進まない日でも
好きなことをやる時は、体が動くものです
普段は寝起きの悪い、うちの子供達も
遠足やお出かけなど、楽しみがある時は、サッサと起きます
好きなことでも、何となく億劫になったら
本気で、体調の変化を心配すべきです

健康のため、運動をしたり、食事制限をしたりする人もいます
私も何回も結石や痛風をやっておりますので、尿酸値が高いのです
医師から、注意すべき食べ物の一覧表を見せられた時
「先生、オレの好きなものばっかりじゃん」
と話したのを憶えています
私は医師に勧められた薬も飲まず、食事制限もせず
発病を繰り返しながら、生きています
私は”健康”という概念が行動の動機とならないタイプの人間なのです
健康には憧れますし、死や病苦は望みませんが
なぜか、”健康”は私の行動の動機とならないのです
これが自分でも不思議です
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