昨夜、小池真理子先生の「瑠璃の海」を読了しました。
文庫本で500頁ちょっとの長編でしたが、わりあいすんなり読めました。
相変わらず平易で読みやすい文章です。
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瑠璃の海 (集英社文庫) |
小池 真理子 | |
集英社 |
で、読後感。
これは好悪が分かれる小説だろうな、と思いました。
高速バスの事故で夫を失った30代後半の萌。
同じ事故で小学生の娘を失った40代前半の売れない小説家。
小説家は、とうの昔に離婚していて、娘を一人で育てていました。
萌と小説家は、遺族の会で知り合います。
そして、急速に魅かれあっていきます。
耐えがたい喪失感を抱えた二人は、その喪失感を共通項にして、結びつきを強くしていったのでしょうか。
売れないとはいえ一応小説だったため、事故後1年も経たないうちに付き合い始めた二人を週刊誌が面白おかしく取り上げたり。
すでに事故死した夫が、生前浮気していたのではないかと萌が疑ったり。
さらには、結婚前に少し付き合っていただけの男に、萌が体の関係を迫ったり。
小説家との情交に溺れて会社をさぼったり。
小説家はふらっといなくなって、酔っぱらって喧嘩したあげく、怪我を負ったり。
およそ道徳的とは言い難い二人。
そして、この二人、年がら年中性交に励んでいます。
お盛んと言いましょうか。
官能の香り高い、というよりは、やりすぎでねぇの?という感想を持ちます。
そして、2人は、なぜか心中へとひた走ります。
愛する人を失った二人ですが、現在は独身同士。
結婚することもできるし、事実婚で生きていくこともできます。
二人はそのことをよく承知しています。
しかし小説家は、純文学を目指しながら、食うためにポルノを書かざるを得ず、大酒喰らって体を壊すまでポルノ作家を続けるのは緩慢な自殺にしか過ぎないと考え、死を決意します。
それを聞いた萌は、一緒に死ぬことを決め、小説家と死への旅行に出かけるのです。
行先は、長崎県の平戸。
隠れキリシタンの里を、死の場所と定めます。
徹底した無宗教者であった萌は、以下のような感想を持ちます。
懺悔し、救いを求め、救われていく人々が生きてきた地で、自分たちは懺悔もせず、救いも求めず、救われようともせずに、こうして最後の幕をおろそうとしている。
二人は平戸の温泉旅館で最後の夜を過ごした後、互いの手首を浴衣の腰紐でしっかりと結び、崖から飛翔するわけですが、この時、萌は、人生最高の幸福感に包まれています。
おそらくは小説家も。
陳腐な言い方ですが、死ぬことで永遠の愛を手に入れようとしたのでしょうか。
起承転結がはっきりした物語で、描写もうまいのですが、どうしても、心中を選ぶという二人に感情移入することが出来ませんでした。
恋は盲目と申します。
激しい恋は、一種の狂的な状態と言ってよいでしょう。
その狂いが、私には今一つ理解できません。
私自身が恋に狂うというほどの経験を持っていないからかもしれません。
私はごく平凡な恋愛しか経験がありませんから。
この小説は、狂うほどの恋の経験者にしか理解できないのかもしれません。
しかし経験者であっても、もう褪めてしまったのなら、経験者だからこそ、この小説を嫌うような気がします。
この作者の作品としては、出来が良いとは言えないように感じます。