米太平洋軍のハリー・ハリス司令官が、北朝鮮が進める核兵器開発計画の脅威への対応について、「想像できないことも想像しなければならない」、と警告したそうですね。
想像できないこととは、例えば、北朝鮮が核弾頭を搭載したミサイルでロサンゼルスやホノルル、ソウル、東京、シドニー、シンガポール等を攻撃することだそうです。
まさしく想像し難い事態です。
しかしかつて、英国のチェンバレンが繰り広げたナチス・ドイツに対する融和政策は、絶対的な平和主義に裏打ちされた英仏等の人々から歓迎されましたが、それはドイツの要求をのみ続けることでしかなく、結局、ドイツの増長を許し、第二次大戦に突入することになりました。
英国民もドイツ国民も、ナチが政権を握った段階では、英独の全面戦争など想像できなかったのではないでしょうか。
でなければ、ナチが選挙に勝てるはずもありますまい。
後にチャーチルは、第二次世界大戦は防ぐことができた。宥和策ではなく、早い段階でヒトラーを叩き潰していれば、その後のホロコーストもなかっただろう、と述べています。
真偽は今となっては分かりません。
第一次大戦後、パリ不戦条約だの、国際連盟だのといったものができて、欧州では絶対平和主義とでも言うべきものが流行しますが、戦後わずか20年ほどで、第二次大戦が勃発してしまいます。
第二次大戦後、発足した国際連合は、これを教訓に、朝鮮戦争をはじめとして、紛争に直接介入するなどし、絶対平和主義の立場は取りませんでした。
一方わが国では、それこそ想像できない条文を施行した憲法が発布され、それは今もわが国の言論空間を苦しめ、不毛なものにしています。
戦争放棄を謳うのは大いに結構。
しかし、自衛のための戦力は保持する、とだけ書いておけば、どれだけの無駄な時間が節約できたでしょう。
たしかに、9条2項は、自衛のための戦力は保持できる、と解釈できますし、現にそういう解釈でわが国は強力な軍事力を保持していますが、それはそういう解釈ができるという説明を受けて、そうかもしれない、という程度のこと。
小学生や中学生、いや、大人であっても、解釈を聞かずに普通に憲法9条の1項・2項を読めば、あぁ、日本は軍隊を持てないんだな、誰が日本を守るんだろうなと、不安になるでしょう。
そして戦後、わが国では、非武装中立などという奇っ怪で絶対平和主義的な風潮が蔓延しました。
幸いなことに、賢明な国民はそのようなことを唱える党派に政権を渡すことは無く、今ではほぼ、絶滅危惧種になりました。
それでもなお、平和憲法という、実態に照らして嘘でしかない美辞麗句に、惑わされている人々がいるのは悲しいことです。
イワシの頭も信心から、とは言いますが、現実と乖離した嘘を信心するとは、信じることは怖ろしい。
法律は守らなくてはなりません。
そしてそれは、現実に守れる内容でなければなりません。
守れなくなったら政府が解釈を変えれば良いのだとしたら、それは順序が逆です。
時代の要請により、時の解釈が耐えられなくなったのだとしたら、法律そのものを変えるしかありません。
かつてわが国では、想像できないことを想像することが、悪であるかのような言論がありました。
世界の人々は争いを好まず、わが国が餌食になることはない、という。
しかしそれは、わが国が歩んできた道に思いを致せば、まったく虚しいということに気付くでしょう。
わが国自身が、他国を侵略し、自国の利益を守るために、巨大な敵をものともせずに戦い続けたのです。
他の軍事強国も同様。
それがなぜ、わが国が明治憲法を改正しただけで、わが国一国のみは安全だなどと思えるでしょう。
わが国は戦後72年間、平和を保ち続けています。
しかしこの72年間、世界中全てが平和であった年などありません。
先のことは分かりません。
そしておそらく、北朝鮮が近い時期に、破れかぶれの先制攻撃、しかも核攻撃を仕掛けてくることはないでしょう。
ただ、それを想像することは必要であろうと思います。
備えあれば憂いなし、と申します。
想像できない(あるいはしたくない)ことを想像する、その吐き気を催すような面倒な行為を怠った時、それこそが最大の国難と言えるでしょう。
危機を前に砂に頭をつっこむダチョウのようになってしまっては、その国は滅ぶほかありますまい。