書や手紙で文字を書くとき、紙の上には「文字」と「文字でないところ」があります。「文字でないところ」なく、文字だけを書き続けることは不可能です。同様に音楽は、鳴っている音だけで作られているのではなくて、鳴っていないところがあるから音楽になります。すべての音が途切れることなく鳴り続けたら、音楽になりません。歌にしても、声を出すところだけでなく、出さないところもあります。
つまり文字は「文字」と「文字でないところ(無文字と呼ぶことにします)」の両方があって初めて成立します。音楽も「音」と「音でないところ(無音と呼ぶことにします)」によって成立します。それでは、人はどうでしょうか。ほとんどの人は、カラダという肉体だけで生きていると考えているのではないでしょうか。上述した例に従えば、カラダ以外に「無カラダ」というのがあっても良いはずです。また「自分」とは、人の形をした特定の人間というだけでなく、「無自分」というのがあっても良いのです。
「無カラダ」や「無自分」は、普段「自分」だと考えている以外のすべてのものが、自分とつながっている状態です。個が独立して(単独では)存在できないのです。逆から見れば、つながることで存在することができるのです。
文字と無文字が、音と無音がセットになっているように、カラダと無カラダ、自分と無自分もセットとして考えます。ただし「無カラダ」、「無自分」とは分かりづらいので、「透明」という言葉を使い、それを表します。「透明なカラダ」、「透明な自分」と。要するに自分は、色のついた普段のカラダと、透明なカラダを持っているということ。色のついたカラダや自分は独立しますが、透明な方は周りとつながっている。
私たちが日常でこの二つを、どのように具体的に「セット」として活用できるのか。それはカラダを使いながら、意識(イメージ)することです。