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気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

周りとの一体感・・・個人的な体感

2020-06-06 07:02:43 | 「立つ」健康法
 自分と周りの物物がつながるような感覚は、ふつうの生活の中ではなかなか得られない。自分を強く意識している日常では、自他の区別が明確で、周りとつながることができない。そのような「一体感」は、自分を「消した」ときにはじめて得られる感覚なのである。自分を消すと、周りの方が近づいてきて、知らず知らずのうちにつながっている。
 「自分を消す」ということは、どういうことなのか。それは透明人間になることではなく、「本質」を取ってしまうことである。本質とは人がその物に与えた意味のようなものであるから、もう一度それをはく奪してしまえば、名や意味を持たない元のナニカに戻るのである。それが「自分を消す」ことである。
 しかしだからと言って自分や物物を本質抜きで考えることなどすぐにはできない。私たちは長年物物に名を付け意味を付け、考えるクセがついているからである。そこで「からだ」を使うのである。意識だけで自分を消そうとせずに、同時に「からだ」も使っていくことで、「消し」易くなるのである。みぞおちを弛めることから始めて、全身呼吸、からだの一体感、輪郭消し…と続けていく。そうすると意識よりも前にからだが、その存在を消していく。からだの力が抜けると、からだをまるで空気のように感じる。実体としてのからだの存在が薄くなる。そのようなからだの状態になると、意識もからだの感覚に影響されて存在が薄くなる。この練習をするときに、「本質を消そう」などと思うことはない。ただ力を抜いていくと結果的に自分に対する執着が減り、周りとの一体感を感じられる。
 
 念のために言っておくと、私は本質を否定しているわけではない。日常のほとんどは本質を意識して生活しているが、日に何度か本質抜きの状態を作りたいと思っている。周りとの「一体感」を得た後に観える風景は、本質のみのときとは違い、一体感もありながら同時に周りの物物も名を持ち意味を持ち、それぞれ存在しているのである。

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「合う仕事」をからだにきく

2020-05-23 08:29:26 | 「立つ」健康法
 「立つ」健康法を実践しているのは、日々歪んでしまう身心を「調整」するためである。身心の歪みとは何か。それは不自然に使ったことによる偏りである。不自然とは何か。不自然とは裡側から湧いてくる欲求に拠らず、アタマで考えた価値に従うこと。
 
 十代後半から二十代半ばにかけて、私は自分が何を「やりたい」のかわからなかった。「やりたいこと」があるはずだと思い込んでいた。現在まで幾つかの仕事をしてきたが、自分の本当に「やりたいこと」だと思ったことは一度もない。それでよいのではなかろうか。「立つ」健康法が最後の仕事になったとしてもまったく後悔することはないと思えるのだから。

 「やりたい・やりたくない」、「好き嫌い」、「できる・できない」という基準で仕事をさがすのもよいが、「合う・合わない」が大事だ。何の仕事をしているかよりも、その仕事の中で自分らしくいられるかどうかということ。
 その仕事が「合うか合わないか」は、自分の身心にきかなければならない。聴き取る能力も磨かなければならない。「立つ」練習を続けていくと、身心の欲求がわかるようになる。何かをしたいのか、したくないのか。「したくない」というのも立派な欲求である。それに従っていくようにすればいい。慌てることなく、動く欲求が出るまでは動かなくていいのである。
 自分の身心が、自分らしく発揮できる環境をさがす。無ければ作ればいい。

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からだを「静止」する

2020-05-14 16:16:24 | 「立つ」健康法
 健康のために「からだを動かす」人はいても、「からだを止める」人はいない。しかし時にはキチンと「静止」することが大事だ。キチンと静止することができなければ、上手く動くことはできない。「キチンと立つ」ことは、日常の動作のすべての基本である。野球に於いて言えば、ランニングやキャッチボール、素振りなどが基本だと言われるが、その前に「キチンと立つ」ことがある。
 「キチンと」と言ったのは、たとえ椅子に腰かけて静止しているように見えても、テレビを見たりケータイをいじったりしているのであれば、「キチンと」とは言わない。意思をもって積極的に静止するときに、はじめて身心は変わり、普段とは違う表情が現れる。健康のために「静止」するという選択肢もあるのである。そういうわけで、私は日々「立つ」練習をしている。
 

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「立つ」ことは 幸せ

2020-05-09 16:24:19 | 「立つ」健康法
 ホームページの更新がずっとできないでいたが、いろいろといじっているうちにできるようになった。関心のある方はご覧ください。

 ホームページのトップページに「立つだけで幸せになる」と書いた。普段「幸せ」という言葉は滅多に使わないし、おそらくブログ上でも使ったことがない。それが、どうして今回あえて使ったのか。「幸せになる」の他に似た意味で考えたのは、「充実感が得られる」「快感が得られる」「自分らしくなる」「自然になる」「リセットされる」「ニュートラルになる」…どれもピッタリしなかった。実を言えば「幸せになる」も、ピッタリではない。
 
 「幸せ」という言葉は誤解されやすい。一般的に「幸せ」が使われるのは、結婚や人生においてである。普通の感覚では「立つことで幸せ」など、なんのことやら想像もできないだろう。しかしながら私が「立つ」ときに得られる身心の状態を「幸せと」表現したのは、普段日常で使われる意味とは異なる。結婚や人生に対して使われるそのような感覚とは違う。では何故「幸せ」を使うのかというと、「立つ」ことで自分の「(判断の)基準」が変わったとき、その言葉はピッタリとは言えないまでも、そうズレてもいないからである。「立つ」ことで身心の状態が変わり、物を観る眼(価値)が変わる。本人が立たないことには「幸せ」がわからない。

 日常の幸せには、条件が付いている。素敵なパートナーとの結婚、仲の良い家族、物に不自由しない生活、健康に生きられること…こういうものが揃うと「幸せ」だと言われる。「立つ」ことは現状を問わずに、無条件で「幸せ」になる。物が無かろうと、孤独だろうと、病が有ろうと…条件という外側をいじらずに、自分という内側をいじる。「いじる」といっても無理にはしない。ごく自然にゆっくりと丁寧に、からだと意識を使って「立つ」と、自ずから「そう」なってしまう。「立っている」ことに満足する、他に何も求めない…だから「幸せ」という言葉を使ったのである。


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我流 自宅トレーニング③・・・日々「立つ」わけ

2020-04-30 10:18:46 | 「立つ」健康法
 一日の中で、寝たり座ったりせずに「立って」いる時間はどれくらいあるのだろうか。この四日間(4月26日~29日)、「立っている」時間を計ってみた。起床から寝るまでの時間は16.5~17.5時間。そのうち座っていたのはおよそ3・5~4時間。13時間くらい「立って」いたということになる。立っていたといっても、ただ立っていたのではなく、ほとんどは立ちながら他のことをしていた。散歩、家事、読書、テレビの視聴…そんな中で私は毎日「キチンと立つ」時間を作っている。それは、立ちながら行う坐禅・瞑想のようなものである。
 「立つ」練習が、ただ姿勢の矯正だったり、筋肉のトレーニングだけであるのなら、私はこんなに長く続けて来ることはできなかった。ココロとからだが、あるべき場所に落ち着く快感があるから「立って」いる。そこで感じられる世界は、閉じこもった自分だけの小さなものではなく、周りとつながった大きな世界である。こういう感覚は日常で実現されることはなく、身心を丁寧に調整していった結果として現れるものである。

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