自分と周りの物物がつながるような感覚は、ふつうの生活の中ではなかなか得られない。自分を強く意識している日常では、自他の区別が明確で、周りとつながることができない。そのような「一体感」は、自分を「消した」ときにはじめて得られる感覚なのである。自分を消すと、周りの方が近づいてきて、知らず知らずのうちにつながっている。
「自分を消す」ということは、どういうことなのか。それは透明人間になることではなく、「本質」を取ってしまうことである。本質とは人がその物に与えた意味のようなものであるから、もう一度それをはく奪してしまえば、名や意味を持たない元のナニカに戻るのである。それが「自分を消す」ことである。
しかしだからと言って自分や物物を本質抜きで考えることなどすぐにはできない。私たちは長年物物に名を付け意味を付け、考えるクセがついているからである。そこで「からだ」を使うのである。意識だけで自分を消そうとせずに、同時に「からだ」も使っていくことで、「消し」易くなるのである。みぞおちを弛めることから始めて、全身呼吸、からだの一体感、輪郭消し…と続けていく。そうすると意識よりも前にからだが、その存在を消していく。からだの力が抜けると、からだをまるで空気のように感じる。実体としてのからだの存在が薄くなる。そのようなからだの状態になると、意識もからだの感覚に影響されて存在が薄くなる。この練習をするときに、「本質を消そう」などと思うことはない。ただ力を抜いていくと結果的に自分に対する執着が減り、周りとの一体感を感じられる。
念のために言っておくと、私は本質を否定しているわけではない。日常のほとんどは本質を意識して生活しているが、日に何度か本質抜きの状態を作りたいと思っている。周りとの「一体感」を得た後に観える風景は、本質のみのときとは違い、一体感もありながら同時に周りの物物も名を持ち意味を持ち、それぞれ存在しているのである。
「自分を消す」ということは、どういうことなのか。それは透明人間になることではなく、「本質」を取ってしまうことである。本質とは人がその物に与えた意味のようなものであるから、もう一度それをはく奪してしまえば、名や意味を持たない元のナニカに戻るのである。それが「自分を消す」ことである。
しかしだからと言って自分や物物を本質抜きで考えることなどすぐにはできない。私たちは長年物物に名を付け意味を付け、考えるクセがついているからである。そこで「からだ」を使うのである。意識だけで自分を消そうとせずに、同時に「からだ」も使っていくことで、「消し」易くなるのである。みぞおちを弛めることから始めて、全身呼吸、からだの一体感、輪郭消し…と続けていく。そうすると意識よりも前にからだが、その存在を消していく。からだの力が抜けると、からだをまるで空気のように感じる。実体としてのからだの存在が薄くなる。そのようなからだの状態になると、意識もからだの感覚に影響されて存在が薄くなる。この練習をするときに、「本質を消そう」などと思うことはない。ただ力を抜いていくと結果的に自分に対する執着が減り、周りとの一体感を感じられる。
念のために言っておくと、私は本質を否定しているわけではない。日常のほとんどは本質を意識して生活しているが、日に何度か本質抜きの状態を作りたいと思っている。周りとの「一体感」を得た後に観える風景は、本質のみのときとは違い、一体感もありながら同時に周りの物物も名を持ち意味を持ち、それぞれ存在しているのである。