「新章 神様のカルテ」
「あらすじ」
「第五話 黄落」 その6/7
<宇佐美准教授から暴言問題で呼び出しを受ける>
「本当にお疲れさまでした」
細君の声に私は大きく頷き返した。
「不安……ですか」
そっと呟いた細君のその声に私は苦笑する。
「不安は不安だが、正直なにが不安なのか判然としないほど、問題が多い」
二木さんの残りの時間がどのような形になるのか、すべて想定できているわけではない。1週間後に外来受診の予定にはしてあるものの、いつなにが起こるかは分からない状態だ。
一方で利休の暴言騒動も何も片付いていない。利休自身の責任はもちろん、同席していた上司も必ずしも模範的な対処をしたわけではないから、そうそう穏便に収まるとは思えない。
そんな五里霧中のような事態の最中、今朝方、さらに揺さぶりをかけるように御家老から一通のメールが届いていた。
「ハル、一つ伝えておかねばならないことがある。週明けの月曜日、宇佐美先生から准教授室に来るように呼び出しを受けた」
「何か大きな問題になるのでしょうか ? 」
「まだ分からない。しかし来年度の人事に影響の出る話になるかもしれない」
利休はすでに来年度、飯山高原病院に出ることがほぼ確定している。
問題は私の行く末だ。
「松本を出ることになるかもしれない」
細君は沈黙を守ったままだ。
「私は構わない。大学院の研究も、今年中に実験を終らせておけば、あとはデータ解析と文献整理になるから、月に一度くらい大学に出かければなんとか形にできるはずだが、私について来るハルのほうが大変だ。長野県は交通の便が悪いし、本当に遠方になると、こども病院の通院について行くことも困難になる」
「もちろん大変なことはあります。こども病院の通院だって少し心配です。でも大変で心配なことなら、これまでだって山のようにありました。でも、全部イチさんと二人で乗り越えられたんです」
一度目を伏せた細君は、「だから」と静かな声で続けた。
「大丈夫でないことも、全部含めてきっと大丈夫です」
不思議な言葉であった。
不思議なことに、それは、つい先ほど私が二木さんの御主人に告げた言葉でもあった。思いは巡るものである。
<宇佐美准教授にパンの持論を述べる>
月曜日の夜8時。
それが、準教授が私に指定した呼び出し時間である。
本日の呼び出しについて、私は誰にも公言していないのに、准教授室の近くで北条先生が壁にもたれていた。
「こんなところで何をしているんですか、先生」
「パン屋相手には戦うなってことさ」
思わぬ言葉に、私は口をつぐむが、構わず北条先生は続ける。
「栗ちゃんには言いたいことは山ほどあるだろう。だけど、とにかく穏やかに終わらせることが栗ちゃんの仕事だ。そして俺の頼みだ」
「もとより、そのつもりです。いたずらに大騒ぎをして追い出されるのは、本意ではありません」
………。
御家老は抑揚のない声で私を迎えた。
「なぜ呼ばれたのか、分っているかね。この1週間、私のもとに届いた文書だ。読んでみるかね ? 」
「大丈夫です。内容はおよそ見当がつきます」
訪問介護ステーションや地域連携室から公式に抗議文が来ているという話はすでに聞いている。
「チームを統括するはずの医師がスタッフに向かって暴言を吐いたこと、チーム医療を無視する独断的行動、臨床医としても不適合だという指摘、医局としては見過ごすこともできない厳しい内容だ。もちろん当事者の新発田先生には改めて謝罪文を提出してもらうが、彼の指導医であり、かつ彼の失言時に同席していた君の責任は看過できない」
「申し訳ありませんでした」
あらためて深々と頭を下げる。
「ここは大学病院だ。……そういう人々と建設的な話し合いの場を持ち、より良い結論を導き出していく……」
御家老の言っていることは道理であって、反論の余地はない。
御家老の冷然たる演説は続く。
「熱心でさえあれば良いのは、医学生の間だけだ。……良識にのっとった行動を……」
まだ言葉は続く。
「限られたパンの話は君にもしただろう。……ルールを厳守し、チームワークを円滑にして……」
「そんな話は、もういいですよ、先生」
思わず知らず言葉がこぼれ落ちていた。そろそろ忍耐の限界なのである。
「本当にすみません」
私は頭を下げた。
「ルールも規律もよく分かっています。先生の話は理解しているつもりです。けれどもパンの数が足りないなんて、嘘ですよ、宇佐美先生」
はっきりした声で申し上げた。
「2年半、大学に勤めてよく分かりました。大学には、ベッドも、医者も、スタッフも、設備もしっかりあるんです。有り余っているとは言いません。けれども、あるべき場所にはたくさんのパンが確保されているんです。そのたくさんのパンを患者に配らずに、後生大事に抱えたまま倉庫に隠し持っているのが大学という場所です。パンの配り方の規則やルールだけは山のように作って、かえって誰もががんじがらめに縛られて身動きが取れなくなっている。大事なパンは、倉庫の中にカビが生えて腐っているんじゃないですか ? 」
御家老は猶動かない。
ここはたしかに普通の病院でない。
誰も知らない疾患を一目で鑑別に上げる医師がいる。世界的なジャーナルに悠々と論文を乗せる医者がいて、当たり前のように太平洋の向こう側で学会発表をする医者もいる。そうした場所だからこそ、岡さんのような困難な症例も、治療に結び付けることができる。
「しかし」と私は静かに続けた。
「これだけの人と物が集まって、たった一人の膵癌患者を退院させることさえ容易ではないんです。なにかがおかしいと思いませんか」
微動だにしなかった御家老が微かに目を細めた。
「大学の医療が貴重なパンだという話はわかります。そのためのルールや規則も必要でしょう。けれどもルールや規則ばかり押し出されて、いつの間にかパンを配ること自体が忘れられかけていると思うのです」
脳中には、二木さんの笑顔がある。
「ガイドラインは大事です。しかし、最後の時間を家で過ごしたいと願う若い母親に転院を進めるようなガイドラインなら、そんなものは破って捨てて病室に足を運ぶべきです。カンファレンスが不要だとは言いません。しかし、じっくり腰を据えて議論をしている時間がない患者がいるんです。それでも懸命に議論をしたあげくに、患者が冷静になるまで待てばいいなどと結論されれば、品のない暴言が飛び出してしまうときもあるかもしれません」
滔々たる長広舌は、我ながら柄でもないと分かっている。
「何がおかしいのか、どうしたら良いのか、今のところ私には分かりません。ただ、分っていることが一つあります。貴重なパンや複雑なルールの話をどれ程繰り返しても、きっと解決しない問題だということです。私は患者の話をしているんです」
言葉が途切れるとともに、今度こそ静寂が舞い降りた。
「言いたいことはすべて言ったかね ? 」
「そのようであります。ありがとうございました」
私は改めて深く頭を下げた。
「君の言葉は留意しておこう。退室したまえ」
面談は終了ということだ。
「第五話 黄落」その7/7 に続く
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます