岸和田競輪場で開催された第75回高松宮記念杯の決勝。並びは新山に桑原,郡司‐北井‐和田の神奈川,脇本‐古性‐南の近畿で小林は単騎。
郡司がスタートを取って前受け。4番手に新山,6番手に小林,7番手に脇本で周回。残り2周のホームまで動きがなかったので,誘導が退避するタイミングから前受けした郡司がそのまま全力で駆けていきました。脇本はそこから動いていきましたが,打鐘から最終周回のホームに掛けて外に浮いてしまい不発。新山がホームから発進すると郡司の番手の北井が合わせて発進。北井が合わせきったので新山も不発。新山の動きには続かなかった小林が和田の後ろになり,脇本が不発に終わったので小林の後ろにスイッチした古性までの4人が優勝圏内。直線も北井が粘り切って優勝。マークの和田が4分の3車輪差の2着に続いて神奈川のワンツー。小林は郡司と和田の間に進路を取り,古性は郡司と小林の間に。バランスを崩しましたが古性が半車身差の3着に入り小林は微差で4着。バランスを崩していた古性はフィニッシュのところでは落車寸前でそのまま落車。優勝した北井が巻き込まれてフィニッシュ後に落車しています。
優勝した神奈川の北井佑季選手は先月の奈良のFⅠを完全優勝して以来の優勝。昨年9月に向日町記念を優勝して以来のグレードレース制覇でビッグは初優勝。ここは総合力では手厚い近畿勢に神奈川勢がどう対抗するかというレースでしたが,この並びならば郡司が捨て身で駆けていくことはみえみえ。北井が躊躇なく番手から出ていくことができれば,脇本と古性といえどもさらに上を捲るのは難しいだろうと思えました。前受けの郡司が駆けていくのはみえみえなのですから,だれも抑えにいかなかったのは,ただ脚を浪費するだけになってしまいますから仕方がないでしょう。新山の捲りに合わせての発進ではありましたが,北井は前をあまり気にせずに出ていきましたので,そこが優勝の大きなポイントになりました。新山の捲りを合わせきった上で,後ろに差させなかったのですから,内容的にも強かったと思います。
第四部定理四七,第四部定理四七備考から理解できるように,スピノザにとって希望spesと不安metusはあくまでも一体化した感情affectusで,そのために各々の感情に対する評価は同等になります。このことは第四部定理五四備考の文面でも一貫しています。そこでも希望と不安が等置され,これらふたつの感情は理性ratioに矛盾するけれども有益であるといわれているからです。ところが,この備考Scholiumの文面は,実は希望と不安とを分けていて,不安の方だけを害悪より利益を齎す感情とみているように読むことができます。同じ備考で次のようにいわれているからです。

「もし精神の無能な人間がみな一様に高慢で,何ごとにも恥じず,また何ごとをも恐れなかったとすれば,いかにして彼らは社会的紐帯によって結合され統合されえようか」。
この文章は,精神mensの無能な人間が何も不安を感じなかったら,かれらは社会的紐帯によって結合され得ないといっていて,つまり社会的紐帯によって結合するためには,精神の無能な人間が不安を感じることが有益であるといっているわけです。そしてこの感情というのは不安でなければならず,希望であってはならないというように読解できるでしょう。最も単純にいえば,法律を犯すような行為に対して,それに不安を感じるというのはそれが露見することに不安を感じるという意味であって,この不安によってその人間はその行為を断念することになるので,社会的紐帯に対して有益であるといえます。一方,法律を犯すような行為に対して希望を感じるというのは,それが露見することはないだろうと感じることにほかならないのであって,その場合はその人間はその行為をなすということになるでしょう。したがってこれは社会的紐帯によって結合することに対して有益どころかむしろ害悪を齎すといわなければなりません。
希望と不安が表裏一体の感情であるということは僕も認めますが,各々の感情がその人間を同じ行為に向かわせるわけではないのであって,希望を感じればXに,不安を感じればXとは正反対のYにというように,その人間を向かわせ得るのです。なので希望と不安を完全に同一の感情としてみることはできません。
郡司がスタートを取って前受け。4番手に新山,6番手に小林,7番手に脇本で周回。残り2周のホームまで動きがなかったので,誘導が退避するタイミングから前受けした郡司がそのまま全力で駆けていきました。脇本はそこから動いていきましたが,打鐘から最終周回のホームに掛けて外に浮いてしまい不発。新山がホームから発進すると郡司の番手の北井が合わせて発進。北井が合わせきったので新山も不発。新山の動きには続かなかった小林が和田の後ろになり,脇本が不発に終わったので小林の後ろにスイッチした古性までの4人が優勝圏内。直線も北井が粘り切って優勝。マークの和田が4分の3車輪差の2着に続いて神奈川のワンツー。小林は郡司と和田の間に進路を取り,古性は郡司と小林の間に。バランスを崩しましたが古性が半車身差の3着に入り小林は微差で4着。バランスを崩していた古性はフィニッシュのところでは落車寸前でそのまま落車。優勝した北井が巻き込まれてフィニッシュ後に落車しています。
優勝した神奈川の北井佑季選手は先月の奈良のFⅠを完全優勝して以来の優勝。昨年9月に向日町記念を優勝して以来のグレードレース制覇でビッグは初優勝。ここは総合力では手厚い近畿勢に神奈川勢がどう対抗するかというレースでしたが,この並びならば郡司が捨て身で駆けていくことはみえみえ。北井が躊躇なく番手から出ていくことができれば,脇本と古性といえどもさらに上を捲るのは難しいだろうと思えました。前受けの郡司が駆けていくのはみえみえなのですから,だれも抑えにいかなかったのは,ただ脚を浪費するだけになってしまいますから仕方がないでしょう。新山の捲りに合わせての発進ではありましたが,北井は前をあまり気にせずに出ていきましたので,そこが優勝の大きなポイントになりました。新山の捲りを合わせきった上で,後ろに差させなかったのですから,内容的にも強かったと思います。
第四部定理四七,第四部定理四七備考から理解できるように,スピノザにとって希望spesと不安metusはあくまでも一体化した感情affectusで,そのために各々の感情に対する評価は同等になります。このことは第四部定理五四備考の文面でも一貫しています。そこでも希望と不安が等置され,これらふたつの感情は理性ratioに矛盾するけれども有益であるといわれているからです。ところが,この備考Scholiumの文面は,実は希望と不安とを分けていて,不安の方だけを害悪より利益を齎す感情とみているように読むことができます。同じ備考で次のようにいわれているからです。

「もし精神の無能な人間がみな一様に高慢で,何ごとにも恥じず,また何ごとをも恐れなかったとすれば,いかにして彼らは社会的紐帯によって結合され統合されえようか」。
この文章は,精神mensの無能な人間が何も不安を感じなかったら,かれらは社会的紐帯によって結合され得ないといっていて,つまり社会的紐帯によって結合するためには,精神の無能な人間が不安を感じることが有益であるといっているわけです。そしてこの感情というのは不安でなければならず,希望であってはならないというように読解できるでしょう。最も単純にいえば,法律を犯すような行為に対して,それに不安を感じるというのはそれが露見することに不安を感じるという意味であって,この不安によってその人間はその行為を断念することになるので,社会的紐帯に対して有益であるといえます。一方,法律を犯すような行為に対して希望を感じるというのは,それが露見することはないだろうと感じることにほかならないのであって,その場合はその人間はその行為をなすということになるでしょう。したがってこれは社会的紐帯によって結合することに対して有益どころかむしろ害悪を齎すといわなければなりません。
希望と不安が表裏一体の感情であるということは僕も認めますが,各々の感情がその人間を同じ行為に向かわせるわけではないのであって,希望を感じればXに,不安を感じればXとは正反対のYにというように,その人間を向かわせ得るのです。なので希望と不安を完全に同一の感情としてみることはできません。