『エチカ』岩波文庫版の新版を手にした僕が最初に確かめたのは,旧版において明らかに誤植ではないかと判断していた部分に,修正がなされているのかどうかという点でした。
僕がこのブログを開始したときに使用する『エチカ』として示したのは,旧版,1975年に改版が出たものです。実際に使っていたのは上巻が1991年5月10日発行の第33刷で,下巻は1990年7月5日発行の第30刷でした。このうち,僕が誤植と判断していた部分が含まれるのは上巻の方です。
その具体的な部分は第一部定理二一証明の中にあります。旧版のページ数でいえば67ページで,その後ろから4行目です。ここに,神Deusの属性attributumの絶対的本性から必然的にnecessario生起するものは,定まった持続duratioを有することができ,その属性によって永遠aeterunusであるという主旨の文章があります。ですがこれは明らかにスピノザが主張しようとしていることと食い違っているし,文章自体に齟齬があると僕は考えていました。永遠であるものが定まった持続を有することができるというのは矛盾以外の何ものでもないからです。第一部定理二一自体は直接無限様態は無限infinitumで永遠であるということをいおうとしているのですから,それが属性によって永遠であるというのは正しいですが,定まった持続を有することができるというのは誤りです。つまりその部分は,定まった持続を有することができず,となっていなければならない筈です。
新版ではこの当該部分は78ページです。そしてこちらの方では確かに,定まった持続を有することができず,となっていて,旧版にあった誤植は修正されていました。
この誤植が,僕が用いていた上巻の第33刷に特有のものであったのか,あるいは旧版はすべて誤植が含まれていたのかは僕には分かりませんが,版型というものがある以上は第33刷だけが特別に誤植を含んでいたとは考えにくいので,旧版には同じ誤植が含まれている刷が存在するものと思います。もし旧版の方を使うあるいは使っているという場合には,きちんと読めば不自然さには気付く筈ですが,一応は気を付けておいてください。
『スピノザ哲学論攷』で言及されている意味での現実性について考えるための条件は出揃いました。ここからは河井の論考を参照しながら,現実性そのものについて詳細に検討していきます。
スピノザは第一部定理二五で,ものの存在rerum existentiaeの起成原因causa efficiensが神Deusであるというだけでなく,ものの本性essentiaeの起成原因も神であるといっています。このことは個物res singularisが属性attributumに包容されている場合にだけ妥当するわけではなく,現実的に存在しているという場合にも妥当すると考えなければならないでしょう。したがって,神は個物の現実的存在の起成原因であるばかりではなく,現実的本性actualis essentiaの起成原因でもあるということになります。
しかし,河井によればこのことは,個物の現実性について考える場合にはあまり多くの意味をなしません。確かに河井は個物の現実的存在と現実的本性が一致するという見方をしていて,この定理Propositioはその両方の起成原因が神であるといっています。ですが河井がその両者を一致するとみるのは,第三部定理七においてです。そしてこちらの定理では,ものが自己の有に固執する傾向res in suo esse perseverare conaturが,そのものの現実的本性であるとされています。ですから単に有あるいは本性,より正確にいうならものの現実的有とものの現実的本性の原因が神であるということより,そこでいわれている自己の現実的有に固執する傾向が何から起因しているかということが重要視されるのです。
もちろんその起成原因も神であるといわなければなりません。そしてスピノザはそれを第一部定理二四系で示しています。現実性にとって最重要の部分は,実はそちらなのです。そしてこれを補完する役割を果たすのが第二部定理四五の備考です。
「おのおのの個物は他の個物から一定の仕方で存在するように決定されているとはいえ,各個物が存在に固執する力はやはり神の本性の永遠なる必然性から生ずるからである」。
これが補完的な役割を大きく果たし得るのは,ここでは個物が存在に固執する傾向が,力potentiaとして示されているからです。この傾向が現実的本性で,それが現実的存在と結合する力として,河井は神をみるのです。あるいは傾向のうちに神の内在を看取するのです。
僕がこのブログを開始したときに使用する『エチカ』として示したのは,旧版,1975年に改版が出たものです。実際に使っていたのは上巻が1991年5月10日発行の第33刷で,下巻は1990年7月5日発行の第30刷でした。このうち,僕が誤植と判断していた部分が含まれるのは上巻の方です。
その具体的な部分は第一部定理二一証明の中にあります。旧版のページ数でいえば67ページで,その後ろから4行目です。ここに,神Deusの属性attributumの絶対的本性から必然的にnecessario生起するものは,定まった持続duratioを有することができ,その属性によって永遠aeterunusであるという主旨の文章があります。ですがこれは明らかにスピノザが主張しようとしていることと食い違っているし,文章自体に齟齬があると僕は考えていました。永遠であるものが定まった持続を有することができるというのは矛盾以外の何ものでもないからです。第一部定理二一自体は直接無限様態は無限infinitumで永遠であるということをいおうとしているのですから,それが属性によって永遠であるというのは正しいですが,定まった持続を有することができるというのは誤りです。つまりその部分は,定まった持続を有することができず,となっていなければならない筈です。
新版ではこの当該部分は78ページです。そしてこちらの方では確かに,定まった持続を有することができず,となっていて,旧版にあった誤植は修正されていました。
この誤植が,僕が用いていた上巻の第33刷に特有のものであったのか,あるいは旧版はすべて誤植が含まれていたのかは僕には分かりませんが,版型というものがある以上は第33刷だけが特別に誤植を含んでいたとは考えにくいので,旧版には同じ誤植が含まれている刷が存在するものと思います。もし旧版の方を使うあるいは使っているという場合には,きちんと読めば不自然さには気付く筈ですが,一応は気を付けておいてください。
『スピノザ哲学論攷』で言及されている意味での現実性について考えるための条件は出揃いました。ここからは河井の論考を参照しながら,現実性そのものについて詳細に検討していきます。
スピノザは第一部定理二五で,ものの存在rerum existentiaeの起成原因causa efficiensが神Deusであるというだけでなく,ものの本性essentiaeの起成原因も神であるといっています。このことは個物res singularisが属性attributumに包容されている場合にだけ妥当するわけではなく,現実的に存在しているという場合にも妥当すると考えなければならないでしょう。したがって,神は個物の現実的存在の起成原因であるばかりではなく,現実的本性actualis essentiaの起成原因でもあるということになります。
しかし,河井によればこのことは,個物の現実性について考える場合にはあまり多くの意味をなしません。確かに河井は個物の現実的存在と現実的本性が一致するという見方をしていて,この定理Propositioはその両方の起成原因が神であるといっています。ですが河井がその両者を一致するとみるのは,第三部定理七においてです。そしてこちらの定理では,ものが自己の有に固執する傾向res in suo esse perseverare conaturが,そのものの現実的本性であるとされています。ですから単に有あるいは本性,より正確にいうならものの現実的有とものの現実的本性の原因が神であるということより,そこでいわれている自己の現実的有に固執する傾向が何から起因しているかということが重要視されるのです。
もちろんその起成原因も神であるといわなければなりません。そしてスピノザはそれを第一部定理二四系で示しています。現実性にとって最重要の部分は,実はそちらなのです。そしてこれを補完する役割を果たすのが第二部定理四五の備考です。
「おのおのの個物は他の個物から一定の仕方で存在するように決定されているとはいえ,各個物が存在に固執する力はやはり神の本性の永遠なる必然性から生ずるからである」。
これが補完的な役割を大きく果たし得るのは,ここでは個物が存在に固執する傾向が,力potentiaとして示されているからです。この傾向が現実的本性で,それが現実的存在と結合する力として,河井は神をみるのです。あるいは傾向のうちに神の内在を看取するのです。