2011年12月に『エチカ』岩波文庫版の改刷が出版されたことによって,このブログに生じることになった不都合は,哲学の部分の読者の方にはとうにお分かりのことだったかもしれません。あるいはすでに不都合を経験された方も存在していただろうと推測します。これは『エチカ』の第二部の中の,僕が自然学といっている部分のことです。
『エチカ』では第二部定理一三備考が終ってから,第二部定理一四が始まるまでの間に,物体corpusあるいは身体corpusに一般の法則に言及した箇所があります。この部分のことを僕は自然学といっています。これだけであれば問題は生じなかった筈ですが,この自然学は僕の解釈では前半と後半に分かれているのです。そこで前半を自然学①,後半を自然学②と表記することにして,この部分に言及する場合には合わせて岩波文庫版のページ数を表記することにしました。
僕は1975年の改刷版を用いていましたから,そのページ数はこの版のものです。しかし2011年の改刷版は文字が大きくなりましたので,その分だけページ数も増え,そのページ数とは適合しません。これが不都合の中身です。
そこでこれ以降は,僕が使用していたものを旧版,20011年版を新版とし,両方のページ数を表記します。ここでは自然学①と自然学②が,旧版と新版ではどの部分に該当するかを示しておきましょう。
旧版の自然学①の始まりは110ページの終りの部分です。そして112ページまでを僕は自然学①といいます。113ページからは自然学②です。これが117ページの終りの方まで続きます。
新版の自然学①の始まりは132ページの最後からです。そして135ページの中ほど,補助定理三系までが自然学①です。次の公理一からは自然学②です。そして141ページの中ほどまでを僕は自然学②といいます。
なお自然学は第二部の中にありますから,いずれも上巻のページ数です。
第三種の認識cognitio tertii generisで神Deusの属性attributumを認識するとき,神については絶対に無限な実体substantiaであると事実上は認識されているといって差し支えないと僕が考える理由はお分かりいただけたと思います。したがって,第五部定理二四では個物res singularisがその個物という様態的変状modificatioに様態化した神と等置されるがゆえに,個物の認識と神の認識が等置されることになるのですが,この個物の認識の原因となる属性の形相的本性essentia formalisの認識は,神については絶対に無限な実体としての認識であり,かつ第一部公理四によって,個物という様態的変状に様態化した神の認識は,絶対に無限である神の認識を含んでいます。あるいはそれに依存しています。だから第一部で説明されている神と,第五部の僕たちの精神mensによる認識の対象としての神の間には,飛躍はないといってよいと僕は考えるのです。
これに対して,第五部定理一五で愛されている神というのは,実は絶対に無限な神ではありません。あるいはこれを様態的変状に様態化した神とみるとしても,それは共通概念notiones communesを通して,すなわち事物の本性ではなく事物の特質proprietasによって認識されている限りであり,それ以上ではあり得ないと僕は考えます。つまり,第三種の認識でいわれている個物の本性の認識には該当しないだろうと考えます。よって,そこで実際に愛されているといわれているのは,少なくとも第一部で説明されているような神ではあり得ず,また第五部定理二四で個物と等置されている神,すなわち様態的変状に様態化した限りでの神でもないと僕には思えます。つまりここでは神を愛するといわれていて,それは確かに共通概念を通して認識される特質を通して認識されている神であるということについては僕は否定しませんが,それは神が変状しているとみられる何らかの様態modiであるという方が,僕たちの思惟作用には適合していると考えます。
したがって僕は,単に限りでの神と説明される神を絶対に無限である神と等置することに飛躍があるとみているのではありません。むしろ限りの神にも二種類あり,それが様態的変状に様態化した神とみられるか,それとも単に様態としてみられるかということの間に,飛躍があるとみているのです。
『エチカ』では第二部定理一三備考が終ってから,第二部定理一四が始まるまでの間に,物体corpusあるいは身体corpusに一般の法則に言及した箇所があります。この部分のことを僕は自然学といっています。これだけであれば問題は生じなかった筈ですが,この自然学は僕の解釈では前半と後半に分かれているのです。そこで前半を自然学①,後半を自然学②と表記することにして,この部分に言及する場合には合わせて岩波文庫版のページ数を表記することにしました。
僕は1975年の改刷版を用いていましたから,そのページ数はこの版のものです。しかし2011年の改刷版は文字が大きくなりましたので,その分だけページ数も増え,そのページ数とは適合しません。これが不都合の中身です。
そこでこれ以降は,僕が使用していたものを旧版,20011年版を新版とし,両方のページ数を表記します。ここでは自然学①と自然学②が,旧版と新版ではどの部分に該当するかを示しておきましょう。
旧版の自然学①の始まりは110ページの終りの部分です。そして112ページまでを僕は自然学①といいます。113ページからは自然学②です。これが117ページの終りの方まで続きます。
新版の自然学①の始まりは132ページの最後からです。そして135ページの中ほど,補助定理三系までが自然学①です。次の公理一からは自然学②です。そして141ページの中ほどまでを僕は自然学②といいます。
なお自然学は第二部の中にありますから,いずれも上巻のページ数です。
第三種の認識cognitio tertii generisで神Deusの属性attributumを認識するとき,神については絶対に無限な実体substantiaであると事実上は認識されているといって差し支えないと僕が考える理由はお分かりいただけたと思います。したがって,第五部定理二四では個物res singularisがその個物という様態的変状modificatioに様態化した神と等置されるがゆえに,個物の認識と神の認識が等置されることになるのですが,この個物の認識の原因となる属性の形相的本性essentia formalisの認識は,神については絶対に無限な実体としての認識であり,かつ第一部公理四によって,個物という様態的変状に様態化した神の認識は,絶対に無限である神の認識を含んでいます。あるいはそれに依存しています。だから第一部で説明されている神と,第五部の僕たちの精神mensによる認識の対象としての神の間には,飛躍はないといってよいと僕は考えるのです。
これに対して,第五部定理一五で愛されている神というのは,実は絶対に無限な神ではありません。あるいはこれを様態的変状に様態化した神とみるとしても,それは共通概念notiones communesを通して,すなわち事物の本性ではなく事物の特質proprietasによって認識されている限りであり,それ以上ではあり得ないと僕は考えます。つまり,第三種の認識でいわれている個物の本性の認識には該当しないだろうと考えます。よって,そこで実際に愛されているといわれているのは,少なくとも第一部で説明されているような神ではあり得ず,また第五部定理二四で個物と等置されている神,すなわち様態的変状に様態化した限りでの神でもないと僕には思えます。つまりここでは神を愛するといわれていて,それは確かに共通概念を通して認識される特質を通して認識されている神であるということについては僕は否定しませんが,それは神が変状しているとみられる何らかの様態modiであるという方が,僕たちの思惟作用には適合していると考えます。
したがって僕は,単に限りでの神と説明される神を絶対に無限である神と等置することに飛躍があるとみているのではありません。むしろ限りの神にも二種類あり,それが様態的変状に様態化した神とみられるか,それとも単に様態としてみられるかということの間に,飛躍があるとみているのです。