「風にならないか」が収録されている「LOVE OR NOTHING」というアルバムには,「タクシー ドライバー」とは違った運転手が登場する楽曲があります。それが「流星」です。

歌っているのは歌手。おそらくツアー中で,専用のバスで移動中です。たぶん夜のことでしょう,山頂のサービスエリアに停車しました。そこには何台もの長距離トラックが並んでいます。その運転手のひとりに話し掛けられます。
どこまで行くの 何しているの
歌を歌っているんです
そうかい, おいらは歌は知らねえな 演歌じゃねえんだろ, そのなりじゃあな
歌詞は音に合わせるので文字数には制限があります。ただこの「歌を歌っているんです」という答え方はとても秀逸だと僕には感じられます。
身体こわさず がんばってみなよ
たまには親にも telしてやんな
吹く口笛はスプリングスティーン あれは演歌だと おっちゃんは信じてる
タクシードライバーとは異質かもしれませんが,このトラックドライバーもいいキャラクターをしていると思います。それをこういう些細な会話で表現してみせるのは才能でしょう。
タイトルが「流星」なのは装飾を施した長距離トラックを流れ星に見立てているからです。
地平のはしから地平のはしまで
皆, 流星のひと走り
ほら 流星がまたひとつ 君は願いを言えたかい
第一部定義四から明らかなように,属性attributumは実体substantiaの本性essentiamを構成します。第二部定義二から明らかなように,事物とその事物の本性は一対一で対応し合います。したがって,事物の本性を十全に認識するということと,その事物の本性を十全に認識するということは同じことです。よって,属性を十全に認識するということと実体を十全に認識するということは同じことでなければなりません。客観的に,すなわち認識においてそのようにいえる事柄は形相的に,すなわち知性intellectusの外においても妥当しなければなりません。ですから属性と実体は,本性と事物の相違に該当するだけの相違があるだけであり,事物と本性を同じものとみなす限りにおいては同一です。なので,たとえば第一部定理一三系には物体的実体substantia corporeaという語句が出てきますが,この物体的実体とは延長の属性Extensionis attributumのことです。とりわけ認識についてはとくにこのことが妥当します。つまり,僕たちが物体的実体を十全に認識するということと延長の属性を十全に認識するということは同じことでなければなりません。そして僕たちが認識する属性は延長の属性のほかには思惟の属性Cogitationis attributumがあるだけなのですから,ここでは便宜的に,思惟の属性を十全に認識するということと思惟的実体を十全に認識するということは同じことでなければならないといっておきましょう。
延長の属性と思惟の属性との間には共通点がないので,第一部公理五の意味から,延長の属性を認識することによって思惟の属性を認識することは不可能です。同じように思惟の属性を認識することによって延長の属性を認識するということも不可能です。いい換えれば,物体的実体によって思惟的実体を認識するということは不可能ですし,思惟的実体を認識することによって物体的実体を認識するということも不可能です。これを積極的にいい換えると第一部定理一〇になります。すなわち延長の属性も思惟の属性も,それ自身によって概念されper se concipiなければなりません。つまり物体的実体も思惟的実体も,それ自身によって概念されなければならないのです。
ところが,このゆえに第一部定理一〇備考でいわれている事柄も帰結することになってくるのです。

歌っているのは歌手。おそらくツアー中で,専用のバスで移動中です。たぶん夜のことでしょう,山頂のサービスエリアに停車しました。そこには何台もの長距離トラックが並んでいます。その運転手のひとりに話し掛けられます。
どこまで行くの 何しているの
歌を歌っているんです
そうかい, おいらは歌は知らねえな 演歌じゃねえんだろ, そのなりじゃあな
歌詞は音に合わせるので文字数には制限があります。ただこの「歌を歌っているんです」という答え方はとても秀逸だと僕には感じられます。
身体こわさず がんばってみなよ
たまには親にも telしてやんな
吹く口笛はスプリングスティーン あれは演歌だと おっちゃんは信じてる
タクシードライバーとは異質かもしれませんが,このトラックドライバーもいいキャラクターをしていると思います。それをこういう些細な会話で表現してみせるのは才能でしょう。
タイトルが「流星」なのは装飾を施した長距離トラックを流れ星に見立てているからです。
地平のはしから地平のはしまで
皆, 流星のひと走り
ほら 流星がまたひとつ 君は願いを言えたかい
第一部定義四から明らかなように,属性attributumは実体substantiaの本性essentiamを構成します。第二部定義二から明らかなように,事物とその事物の本性は一対一で対応し合います。したがって,事物の本性を十全に認識するということと,その事物の本性を十全に認識するということは同じことです。よって,属性を十全に認識するということと実体を十全に認識するということは同じことでなければなりません。客観的に,すなわち認識においてそのようにいえる事柄は形相的に,すなわち知性intellectusの外においても妥当しなければなりません。ですから属性と実体は,本性と事物の相違に該当するだけの相違があるだけであり,事物と本性を同じものとみなす限りにおいては同一です。なので,たとえば第一部定理一三系には物体的実体substantia corporeaという語句が出てきますが,この物体的実体とは延長の属性Extensionis attributumのことです。とりわけ認識についてはとくにこのことが妥当します。つまり,僕たちが物体的実体を十全に認識するということと延長の属性を十全に認識するということは同じことでなければなりません。そして僕たちが認識する属性は延長の属性のほかには思惟の属性Cogitationis attributumがあるだけなのですから,ここでは便宜的に,思惟の属性を十全に認識するということと思惟的実体を十全に認識するということは同じことでなければならないといっておきましょう。
延長の属性と思惟の属性との間には共通点がないので,第一部公理五の意味から,延長の属性を認識することによって思惟の属性を認識することは不可能です。同じように思惟の属性を認識することによって延長の属性を認識するということも不可能です。いい換えれば,物体的実体によって思惟的実体を認識するということは不可能ですし,思惟的実体を認識することによって物体的実体を認識するということも不可能です。これを積極的にいい換えると第一部定理一〇になります。すなわち延長の属性も思惟の属性も,それ自身によって概念されper se concipiなければなりません。つまり物体的実体も思惟的実体も,それ自身によって概念されなければならないのです。
ところが,このゆえに第一部定理一〇備考でいわれている事柄も帰結することになってくるのです。