グレフィウスの報知に対するライプニッツの返事がいつ書かれたものであるのかは,『宮廷人と異端者』には記されていません。ただ報知の方は1671年4月で,スチュアートはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizがすぐに返事を出したとしていますので,同じ月か遅くとも5月のことだったと思われます。
ライプニッツはそこで『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』に批判的な見解を示していますが,それは宮廷人としての表向きの態度だったかもしれません。少なくともライプニッツがスピノザに多大なる関心を寄せたのは間違いありません。同じ年の10月に,ライプニッツはスピノザに最初の書簡を送っているからです。それが書簡四十五です。
書簡の冒頭でライプニッツは,著名,卓越の士よと呼び掛け,世間は多方面にわたるスピノザの才能を称えているという意味のことを書いています。これはスチュアートが解するライプニッツのスピノザ評に合致するとも解せますが,単なる社交辞令かもしれず,僕はこの部分に関してはスチュアートがそうするほどには重視しません。
書簡の内容は光学に関するもので,自身の見解に対する批評を,スピノザおよびフッデJohann Huddeに求めたものです。つまりスピノザとフッデが親しい間柄であるということを,ライプニッツは知っていたということになります。
この書簡は遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。自身とスピノザの間に関係があったことを秘密裡にしておきたかったライプニッツは,編集者のひとりであったシュラーGeorg Hermann Schullerに対して激怒したという主旨のことが『宮廷人と異端者』には書かれています。それに対してシュラーは,たとえこの書簡が掲載されても,それは光学にのみ関連することであり,哲学的内容は含まれていないのだから安心していいという主旨の弁明をしたとされています。
確かにこの書簡だけでみればシュラーの弁明にも理があったでしょう。ですがライプニッツの真の目的は,光学の対話をすることではなく,哲学的対話をスピノザとすることにあったと考えていいだろうと思います。
現実性の個別化に関して第五部定理二二を主軸に置いた暫定的な結論をここでの考察において提出するのには理由があります。
『スピノザ哲学論攷』では,第三部定理七において,個物res singularisの現実的本性actualis essentiaと個物の現実的存在が一致するという見解が出されていました。一致するというのがどういう意味であるかを別にして,この見解そのものには僕も納得することができます。そこでこのときに,もしもある人間の現実的本性が変化するのであれば,その人間の現実的存在はそれと一致するのですから,それと同じだけその人間の現実的存在も変化していると解さなければならなくなります。ですがこの考察ではこの解釈は具合が悪いのです。他面からいえば,たぶん河井の主張では,ある人間の現実的本性が変化し得るという解釈は採用できないものと思われます。
そこで今度は,現実性のうち現実的本性ではなく,現実的存在の方を対象として,それは変化しないということについて有利な材料を『エチカ』の中から提供していきます。なお,僕の個人的な見解をいえば,ある人間の現実的存在が変化し得るという解釈もあり得ると考えていますし,あるものの現実的本性と現実的存在が一致しているのだとしても,現実的本性の方は変化するけれど現実的存在の方は変化しないという解釈も可能だと考えています。ただ河井の論考ではおそらくそれらの解釈が不可能なので,ここではその解釈に有利な点をあげるのだと理解してください。
このことは自然学においてスピノザが主張している事柄と親和性があります。ここではその中から,旧版の114ページ,新版では137ページの第二部自然学②補助定理四を援用してみましょう。これでみれば分かるように,いくつかの個物によって組織されている単一の個物の部分にある変化が生じたとしても,その複合的な個物の現実的存在はそのまま維持される場合があります。実際に複合の度合が高い個物にあっては,日常的にこのようなことは生じています。ですがその現実的存在は,同一のものとして維持されるのです。現実的存在が維持される以上,現実的本性もまた同様に維持されていると考えなければなりません。
ライプニッツはそこで『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』に批判的な見解を示していますが,それは宮廷人としての表向きの態度だったかもしれません。少なくともライプニッツがスピノザに多大なる関心を寄せたのは間違いありません。同じ年の10月に,ライプニッツはスピノザに最初の書簡を送っているからです。それが書簡四十五です。
書簡の冒頭でライプニッツは,著名,卓越の士よと呼び掛け,世間は多方面にわたるスピノザの才能を称えているという意味のことを書いています。これはスチュアートが解するライプニッツのスピノザ評に合致するとも解せますが,単なる社交辞令かもしれず,僕はこの部分に関してはスチュアートがそうするほどには重視しません。
書簡の内容は光学に関するもので,自身の見解に対する批評を,スピノザおよびフッデJohann Huddeに求めたものです。つまりスピノザとフッデが親しい間柄であるということを,ライプニッツは知っていたということになります。
この書簡は遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。自身とスピノザの間に関係があったことを秘密裡にしておきたかったライプニッツは,編集者のひとりであったシュラーGeorg Hermann Schullerに対して激怒したという主旨のことが『宮廷人と異端者』には書かれています。それに対してシュラーは,たとえこの書簡が掲載されても,それは光学にのみ関連することであり,哲学的内容は含まれていないのだから安心していいという主旨の弁明をしたとされています。
確かにこの書簡だけでみればシュラーの弁明にも理があったでしょう。ですがライプニッツの真の目的は,光学の対話をすることではなく,哲学的対話をスピノザとすることにあったと考えていいだろうと思います。
現実性の個別化に関して第五部定理二二を主軸に置いた暫定的な結論をここでの考察において提出するのには理由があります。
『スピノザ哲学論攷』では,第三部定理七において,個物res singularisの現実的本性actualis essentiaと個物の現実的存在が一致するという見解が出されていました。一致するというのがどういう意味であるかを別にして,この見解そのものには僕も納得することができます。そこでこのときに,もしもある人間の現実的本性が変化するのであれば,その人間の現実的存在はそれと一致するのですから,それと同じだけその人間の現実的存在も変化していると解さなければならなくなります。ですがこの考察ではこの解釈は具合が悪いのです。他面からいえば,たぶん河井の主張では,ある人間の現実的本性が変化し得るという解釈は採用できないものと思われます。
そこで今度は,現実性のうち現実的本性ではなく,現実的存在の方を対象として,それは変化しないということについて有利な材料を『エチカ』の中から提供していきます。なお,僕の個人的な見解をいえば,ある人間の現実的存在が変化し得るという解釈もあり得ると考えていますし,あるものの現実的本性と現実的存在が一致しているのだとしても,現実的本性の方は変化するけれど現実的存在の方は変化しないという解釈も可能だと考えています。ただ河井の論考ではおそらくそれらの解釈が不可能なので,ここではその解釈に有利な点をあげるのだと理解してください。
このことは自然学においてスピノザが主張している事柄と親和性があります。ここではその中から,旧版の114ページ,新版では137ページの第二部自然学②補助定理四を援用してみましょう。これでみれば分かるように,いくつかの個物によって組織されている単一の個物の部分にある変化が生じたとしても,その複合的な個物の現実的存在はそのまま維持される場合があります。実際に複合の度合が高い個物にあっては,日常的にこのようなことは生じています。ですがその現実的存在は,同一のものとして維持されるのです。現実的存在が維持される以上,現実的本性もまた同様に維持されていると考えなければなりません。
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