JBCクラシックの指定競走になっている第52回東京記念。
逃げたのはファイヤープリンス。ユーロビートが2番手につけました。アウトジェネラル,ウインペンタゴン,カキツバタロイヤル,キタサンシンガー,トーセンアレスまでは離れず続いてここまでが先行集団。中団の先頭にタイムズアロー。ガンマーバースト,クラシカルノヴァに正面でフォーティファイドが追い上げて取りつき,あとは後方にプレティオラスなど。最初の1000mは65秒3で超スローペース。
ファイヤープリンスは押しながら直線入口まで踏ん張りましたがすぐにユーロビートが先頭に。追ってきたのは4コーナーで3番手まで進出していたタイムズアローと5番手にいたカキツバタロイヤルの2頭で,この3頭の激しい競り合い。しかし後方追走から馬群を縫って追い上げ,最後は最内に進路を取ったプレティオラスが瞬く間にこれらを抜き去って優勝。ユーロビートが2馬身半差で2着は確保。大外のカキツバタロイヤルがハナ差の3着で真中のタイムズアローはアタマ差で4着。
優勝したプレティオラスは5月の大井記念を勝って以来の実戦で,南関東重賞連勝で4勝目。東京記念は第50回を優勝していて2年ぶりの2勝目。戦績から明らかなように,大井コースの長距離戦を得意にしていてここは狙った一戦。能力的に最上位とはいい難いのですが,この舞台ならばチャンスはあると思われました。重賞ですとさすがに苦戦となりますが,南関東重賞なら,これからもチャンスは大いにあるでしょう。母の父はダンスインザダーク。従兄に2012年の京浜盃を勝ったパンタレイ。Pretiolasはラテン語で褒美。
騎乗した船橋の本橋孝太騎手は大井記念以来の南関東重賞制覇。東京記念は第50回以来2年ぶり2勝目。管理している大井の森下淳平調教師も東京記念は第50回以来2年ぶり2勝目。
チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausからスピノザへの書簡の一部を仲介しているシュラーGeorg Hermann Schullerは,スピノザの死を看取った医師ではないかとされています。コレルスJohannes Colerusの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de SpinozaだとマイエルLodewijk Meyerという別の人物になっていて,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』でもその説が紹介されていますが,ナドラーSteven Nadlerもそれがシュラーであった可能性を否定はしていません。少なくともシュラー自身は,後にチルンハウスに宛てた手紙に,スピノザが死んだときにそこに居合わせたと書いたようです。
ヨハネス・ファン・デル・メールJohannes van der Meerという名前が書き間違いであるとすれば,シュラーによるものではないかという説があります。つまりシュラーはただ医師としてスピノザの死に関わりを有しただけでなく,死後の遺稿集Opera Posthumaの編纂にもある程度の関わりをもっていたと判断してよいものと思います。
シュラーはスピノザの友人で,おそらくスピノザが信頼していた友人のひとりに加えてよいものと思います。遺稿集の編集に参加できたということが,その証明であると僕には思えます。ただしシュラーは1651年生まれで,スピノザよりも20近く年少ですから,年齢が近かった友人たちとは意味合いに相違がある可能性は高いかと思います。

このシュラーというのはスピノザの友人たちのうちでは,研究者によってあまりよく書かれていないケースが多いです。典型的なのは『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』で,へまな裏切り者で信用が置けないという形容がされています。スチュアートMatthew Stewartは人物を戯画的に描きがちなので,これ自体はそのまま受け取るのは危険かもしれません。ただ,シュラーの同居人だったヘントという人物が,シュラーはろくでなしのならず者だと評していたという事実があるようです。これとて一面的な見方ですが,シュラーはそのようにみられ得る人物だったことは否定できないことになります。
畠中尚志もシュラーには否定的で,性急で不慎重な人柄であったと推定しています。これはシュラーからスピノザに宛てた書簡からのシュラー評です。畠中にはシュラーを否定的に評価する必然性はありませんから,スチュアートのいっていることも,極端な誤解を帯びているとは考えなくてよいでしょう。
逃げたのはファイヤープリンス。ユーロビートが2番手につけました。アウトジェネラル,ウインペンタゴン,カキツバタロイヤル,キタサンシンガー,トーセンアレスまでは離れず続いてここまでが先行集団。中団の先頭にタイムズアロー。ガンマーバースト,クラシカルノヴァに正面でフォーティファイドが追い上げて取りつき,あとは後方にプレティオラスなど。最初の1000mは65秒3で超スローペース。
ファイヤープリンスは押しながら直線入口まで踏ん張りましたがすぐにユーロビートが先頭に。追ってきたのは4コーナーで3番手まで進出していたタイムズアローと5番手にいたカキツバタロイヤルの2頭で,この3頭の激しい競り合い。しかし後方追走から馬群を縫って追い上げ,最後は最内に進路を取ったプレティオラスが瞬く間にこれらを抜き去って優勝。ユーロビートが2馬身半差で2着は確保。大外のカキツバタロイヤルがハナ差の3着で真中のタイムズアローはアタマ差で4着。
優勝したプレティオラスは5月の大井記念を勝って以来の実戦で,南関東重賞連勝で4勝目。東京記念は第50回を優勝していて2年ぶりの2勝目。戦績から明らかなように,大井コースの長距離戦を得意にしていてここは狙った一戦。能力的に最上位とはいい難いのですが,この舞台ならばチャンスはあると思われました。重賞ですとさすがに苦戦となりますが,南関東重賞なら,これからもチャンスは大いにあるでしょう。母の父はダンスインザダーク。従兄に2012年の京浜盃を勝ったパンタレイ。Pretiolasはラテン語で褒美。
騎乗した船橋の本橋孝太騎手は大井記念以来の南関東重賞制覇。東京記念は第50回以来2年ぶり2勝目。管理している大井の森下淳平調教師も東京記念は第50回以来2年ぶり2勝目。
チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausからスピノザへの書簡の一部を仲介しているシュラーGeorg Hermann Schullerは,スピノザの死を看取った医師ではないかとされています。コレルスJohannes Colerusの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de SpinozaだとマイエルLodewijk Meyerという別の人物になっていて,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』でもその説が紹介されていますが,ナドラーSteven Nadlerもそれがシュラーであった可能性を否定はしていません。少なくともシュラー自身は,後にチルンハウスに宛てた手紙に,スピノザが死んだときにそこに居合わせたと書いたようです。
ヨハネス・ファン・デル・メールJohannes van der Meerという名前が書き間違いであるとすれば,シュラーによるものではないかという説があります。つまりシュラーはただ医師としてスピノザの死に関わりを有しただけでなく,死後の遺稿集Opera Posthumaの編纂にもある程度の関わりをもっていたと判断してよいものと思います。
シュラーはスピノザの友人で,おそらくスピノザが信頼していた友人のひとりに加えてよいものと思います。遺稿集の編集に参加できたということが,その証明であると僕には思えます。ただしシュラーは1651年生まれで,スピノザよりも20近く年少ですから,年齢が近かった友人たちとは意味合いに相違がある可能性は高いかと思います。

このシュラーというのはスピノザの友人たちのうちでは,研究者によってあまりよく書かれていないケースが多いです。典型的なのは『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』で,へまな裏切り者で信用が置けないという形容がされています。スチュアートMatthew Stewartは人物を戯画的に描きがちなので,これ自体はそのまま受け取るのは危険かもしれません。ただ,シュラーの同居人だったヘントという人物が,シュラーはろくでなしのならず者だと評していたという事実があるようです。これとて一面的な見方ですが,シュラーはそのようにみられ得る人物だったことは否定できないことになります。
畠中尚志もシュラーには否定的で,性急で不慎重な人柄であったと推定しています。これはシュラーからスピノザに宛てた書簡からのシュラー評です。畠中にはシュラーを否定的に評価する必然性はありませんから,スチュアートのいっていることも,極端な誤解を帯びているとは考えなくてよいでしょう。