スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ちぎり賞争奪戦&現実的本性の相違

2017-08-22 19:07:17 | 競輪
 豊橋記念の決勝。並びは阿部‐志村‐磯田の関東,深谷‐金子‐吉田の愛知,河端‐黒田の岡山で伊勢崎は単騎。
 志村と河端がスタートを取りにいき,内の志村が制したので前受けは阿部。4番手に河端,6番手に深谷,最後尾に伊勢崎で周回。伊勢崎は地元勢を追走という競走に終始しました。残り2周のホームに入って深谷が上昇を開始。ホームの出口で阿部が誘導を斬ると,コーナーで深谷がその上を叩いて前に。後方になった河端がバックに入って漸進。打鐘が入っても深谷が発進する構えをみせなかったので自ら動き,コーナーで深谷を叩いて先行。3番手に深谷,7番手に阿部の一列棒状に。ホームから阿部が発進していきましたが地元ラインに追いつく前にバックの入口から深谷が発進。黒田が車間を開けていた上に河端も抵抗したので苦しみましたが最終コーナーで捻じ伏せて前に。直線は番手の金子が深谷を差して優勝、深谷が半車輪差で2着,吉田も1車輪差の3着で地元勢の上位独占。
 優勝した愛知の金子貴志選手は4月の前橋のFⅠ以来の優勝。記念競輪は一昨年12月の広島記念以来の優勝で通算10勝目。豊橋記念は2006年2013年に勝っていて3勝目。このレースは決勝のメンバーが確定した時点で深谷に対抗できそうな選手が不在で,大方は地元勢による争いになるだろうと思われました。深谷が河端をいかせて3番手を取った時点でさらにそういう決着が濃厚に。ただ深谷が捲り切るのにわりと力を使うことになったので,番手の金子に有利になったということだと思います。金子も全盛期の力はないと思いますが,こういう展開になれば深谷を差すだけの力は残っているということでしょう。

 Aという人間とBという人間が現実的に存在すると仮定します。このとき,AもBも人間ですから,同一の人間の本性humana natura,natura humanaによって説明されることは疑い得ません。しかしAの現実的本性actualis essentiaとBの現実的本性が同一であるとはいいきれません。
                                 
 第三部定理五七は,ある人間と別の人間の感情affectusの相違は,ある人間と別の人間の本性の相違に対応するという意味のことをいっています。したがってこの例でいえば,Aという人間とBという人間の本性が異なり得ることをスピノザが認めているということは疑い得ません。そしてこのときにいわれている本性は,ここで人間の本性といっている本性のことではなく,人間の現実的本性のことであると僕は解します。なぜならこの定理Propositioでいわれている感情は,能動actioに属する感情ではなく受動passioに属する感情でなければならないからです。というのも,第四部定理三二では,人間は受動に従属する限りでは本性の上では一致しないといわれているのに対し,第四部定理三五では,人間が理性ratioに従う限り,すなわち精神の能動actio Mentisに従う限りでは,本性の上で必然的に一致するといわれているからです。
 僕の考えでは,受動というのはあるものが現実的に存在する場合に生じるのであり,それが神Deusの属性attributumに包容されている限りでは生じません。したがって第三部定理五七でいわれている本性の相違は,神の属性に包容されている限りでの人間の本性の相違ではなく,現実的に存在している各々の人間の本性の相違,すなわち人間の現実的本性の相違であると解します。つまり人間の現実的本性は,Aという人間の現実的本性とBという人間の現実的本性というように,さらに個別化され得ると考えます。
 同じことは第五部定理二二からもいえると思います。この定理は明らかにAという人間の身体corpusの本性とBという人間の身体の本性が別個にあるということを含意しているといえるでしょう。そしてそれが永遠の相species aeternitatisの下に表現されるexprimunturといわれているのですから,その本性自体はAの身体の現実的本性でありまたBの身体の現実的本性でなければならないことになります。つまりここでは明らかに身体が現実的本性によって個別化されているのです。
コメント
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